

神の種は実を結ぶ
2021年5月23日(ペンテコステ) ガラテヤ人への手紙5章13節~6章6節 ヨハネの手紙第Ⅰ3章9節に「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」とあります。 イエス様を信じる全ての人には神の種がたましいに備わっています。 イエス様の十字架を信じて救われた人は、罪から完全に救われています。そして、罪を犯すこともできません。何故なら、神の種が備わり罪を犯すことをできなくさせているからです。 今日はペンテコステです。イエス様が十字架に掛かり、墓に納められてから3日後に復活されます。その日から50日後、イエス様の弟子たちに聖霊が降り、伝道が始まり教会が誕生します。それがペンテコステです。今は、聖霊様の時代です。私たち1人、1人にも、聖霊様がおられます。それをヨハネは「神の種」と表現しています。 聖霊様はあのペンテコステの日と同じように私たちにも降臨してくださいました。それは、動かない事実です。 「御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下


神の御前に心安らかに
2021年5月16日 ヨハネの手紙第Ⅰ3章11節~24節 今日の箇所の大切なおことばは「子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」(18節)です。 そうすれば、真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。さらに要約するならば、「真実に兄弟を愛することができれば、神の御前に心安らかでいられます。」です。 先週は私たちクリスチャンには「神の種」がたましいに宿っていることをお話ししました。つまり、私たちはイエス様の遺伝子を持っている神の家族に生まれたものの集まりです。 神にある家族ですが、きっとすべての人に対して同じように好意を持つことは難しいですしょう。また、「好意を持つ」と「愛する」は違います。「好意を持つ」とは心が惹きつけられることです。自分の気持ちにぴったりと合う様です。「愛する」とはオレノ・ディルフェ(南フランスの小説家・恋愛心理の分析において大きな影響を与えた)の定義では、自分を殺して相手の中に生きること、です。 「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それに


神の種
2021年5月9日 ヨハネの手紙第Ⅰ 3章4節~11節 先週は「私たちは神のこども」から「信仰」について学びました。 「神のこども」の大きな特徴は「信仰」を持っていることです。神様を信じていく時に、大きなエリコの城壁は簡単に崩れ、イエス様の墓の巨石は転がっていました。「信仰」になくてはならないものは、「キリストが清い方であるように、自分を清くする」ことです。しかし、ヨシュア記7章に記されているように、すばらしい「信仰」があっても、自己中心的な思い、神様に従わないことにより敗北する「アカンの罪」を学びました。今日はその続きです。 自分を清く保つことに心がけている人は罪を犯しません。 罪とは何でしょうか?罪とは律法に反することです。 ヨハネの手紙Ⅰ 3章4節 では、律法とは何でしょうか?モーセの律法は613の細かい規則からなっています。613の規則を守ることは人間には不可能でした。しかし、イエス様は613の律法を見事に成就されました。満たされました。(マタイ5:17)「わたしは律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではな


私たちは神のこども
2021年5月2日 ヨハネの手紙第Ⅰ2章28節~3章3節 使徒ヨハネはイエス様の救いを受ける以前は「雷の子」とイエス様にあだ名付けされるほど怒りっぽい人でした。けれども、晩年はとても穏やかになり、ヨハネが講壇に立つだけで恵まれる使徒でした。ヨハネはクリスチャンたちを愛し「子どもたち」と呼びかけます。それは、ヨハネの教えを忠実に守った証しであり、一方、イエス様によって、贖われた「神のこども」という意味もあります。 3章1節にはこう記されています。「私たちが神のこどもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。」とあります。御父のすばらしい愛とはイエス様を十字架に送り私たちの贖いを成してくださったという愛です。2節にはこうあります。「愛する者たち、私たちは今すでに神のこどもです。」と。 神のこどもの特権は何でしょうか。永遠のいのち、罪の贖い、天国への希望、天での相続財産、沢山あります。 2節にはさらに素晴らしいことが記されています。「キリストが現れたときに、キリストに似た者になる。キリストをありのまま見る」素晴らし