

夜が明け始めていたころ
2021年4月18日 ヨハネの福音書21章1~5節 「夜が明け始めていたころ」 蒲谷さんが上野宏樹さんを偲ぶお花をいけてくださいました。 私たちは、突然想定外の悲しみ、苦しみに遭遇します。このお花が慰めになります。 今朝は、想定外の苦しみの中でイエス様が、私たちにどのように現れてくださり、癒しの恵みを与えてくださるのかを見て行きたいと思います。イエス様は多くの人々の病を癒し、律法学者も、かなわない知識を持ち、人気があり、弟子たちは日増しに増えていきます。いつも変わらずに真理を語り、子どもを愛し、弱い人々、貧しい人々の味方でした。政治家になる理想の人です。弟子たちはイエス様を中心とした国が造られて、ローマからの支配を脱却できるかもしれないと考えていたかもしれません。そして、イエス様を中心とした国で力を持ちたいと、ひそかに野心を持っていました。ところが、イエス様は犯罪者として捕らわれ、十字架刑に処されます。しかも、一夜のうちに状況が一変します。弟子たちはその変化について行けず、理解ができず、大変困惑していました。イエス様にすべての期待をかけ、イエス様


注ぎの油
2021年4月11日 ヨハネの手紙第Ⅰ2章26-29節 注ぎの油とは何でしょうかよく、皆さんが、メッセンジャーに対して、油を注いでくださいとお祈りしてくださいます。 創世記28章18節にこのような記事があります。「ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。」その油の作り方が出エジプト記30章23-33節に記されています。聖なる注ぎの油は、聖分された者であり、人となり、神に仕えるために聖別されたあかしとして注がれます。 第Ⅰヨハネの2章にもどります。2章の27節には、御子から受けた注ぎの油とあります。注釈を見ますと、ヨハネの福音書14章16節が出てきます。「・・父はもう一人の助け主をお与え下さる・・」「この方は真理の御霊です」17節つまり、真理の御霊、聖霊様のことを、御子から受けた注ぎの油と呼んでいます。ですから、メッセンジャーに対して、油を注いでくださいという時は、十分に聖霊様が働いてください、と言うことです。聖霊様は、私たちが救いに預かったときに、聖霊様も与えられます。それは、どのような意味があるでしょうか。「


空の墓
2021年4月4日 ルカの福音書 24章1-12節 「空の墓」 イースターおめでとうございます。 今朝は、ルカの福音書24章からイースターの恵みをともに味わいたいと思います 。 3節に、「 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。」とあります。 つまり、 墓が空であったということです。 私の母は5人姉妹です。母の故郷は福島県郡山市です。そこに実家の墓もあります。ところが、墓がかなり古くて、修理に多額の費用がかかるそうです。母の妹だけが、旧姓を名乗っており、その墓に入りたい。しかし、その他の姉妹はそのお墓には入りたくない、とすこし、難航しています。費用をだれが負担するのか、あるいは分割するのか墓は私たちにとって 、 大切なものです。墓は納骨の場所であり、偲ばれる場所であり、生きた証の場所です。 1. 墓が空であった 女性たちが香料をもって墓に来ました。24章1節しかし、イエス様のお身体は無く「空」でした。 イエス様のお身体がないということは、イエス様の生きた証がなくなったということです。 女性たちが悲しんでいると、「どうして生きている


真理を示すリトマス試験紙
2021年3月21日 ヨハネの手紙第Ⅰ2章18-25 節 先週の続き です。先週 は 世とは「神様に対する高ぶり」であることを見てきました。今週はガラッと雰囲気が変わります。それは、「世の終わり」に焦点を当てています。 世の終わりについては、イエス様がマタイの福音書 24 章で語っておられます。イエス様の名を名乗る者が大勢現れる。人に惑わされないように。戦争や、戦争のうわさ民族同士の対立、国同士の対立、飢饉、地震。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷たくなると。そして、「世の終わり」に 必要な 態度とは 、「最後まで耐え忍ぶこと」です。 ヨハネの手紙第Ⅰでは「初めから 聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい」です。「初めから聞いていること」とはなんですか。ヨハネの福音書3章16節です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、1人として滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。」です。これが、はじめから聞いていることです。 今朝の箇所で「世の終わり」と書いてあります。いまは、それから約2000


教会にあるすべての人々へ
2021年3月14日 ヨハネの手紙第Ⅰ 2 章 7 1 1 節 ここで、ヨハネは子どもたち、父たち、若者たちと呼びかけます。 こども、父たち、若者たちとは年代的に人々を呼んでいるとも取れますし、信仰を持って間もない人を子どもたち、また、ある程度年数がたっている人を若者たち、また、熟練した信仰を持っている教父たちを父たちと呼んでいるとも取れます。 12 節、子どもたち、あなたがたの罪が赦されたからです、13節、父たち、神様をとらえ、実際的に知るようになったからです。若者たち、信仰の闘いを勇敢に戦っているからです。 また、14 節、幼子たち、罪がゆるされて、神様を知るようになった。 父たち、創造主でおられる父なる神を知るようになった。つまり、さらに深い意味でしるようになった。そして、若者たち、信仰の闘いを制して、神のことばが心に留まるようになったから・・とそれぞれの信仰の段階に応じてヨハネが教会にいる人々に語りかけているように聞こえます。こどもたち、父たち、若者たちとは、教会にいるすべての人々の総称です。つまり、私たち 1 人、 1 人にもヨハネ先生


新しい命令と古い命令
2021年3月7日 ヨハネの手紙第Ⅰ 2 章 7 1 1 節 397年のカルタゴ会議で 27 巻の新約聖書が出来上がりました。 2章7節にある「みことば」とは旧約聖書のことであり、また、当時口伝や記録として残っていたイエス様のおことばです。しかし、この当時流行していた、新しい教え、「グノーシス」は旧約聖書あるいは、イエス様のおことばを「古いもの」とし、この「グノーシス」の教えこそ、今の時代に必要な新しい真理としてい教会に入ってきました。ヨハネは旧約聖書やイエス様の教えは決して古い教えではない、いや、むしろ新しい教えであることを強調します。 今次総会期で岩上代表が3つの方針を立てました。 ① 健全な神学(信仰と生活における唯一の基準としての聖 書)に基づいた教団運営。 ② メソジスト神学に基づく実践(きよめの神学理解の深まりと健全な実践) ③ 伝道と教会建設を優先的に取り組み続ける群れ 簡単に要約しますと、聖書ときよめと伝道です。インマヌエル教団はこの3本柱を基本として成長してきました。もっと簡潔にいいますならば、「聖と宣」です。もう一度、ここに立


神の愛が確かに全うされている
2021年2月21日 ヨハネの手紙第Ⅰ 2 章 1 6 節 今日はヨハネの手紙第Ⅰの 3 回目です。 2 章の 1 節~始まります。 この個所は 1 章の 10 節とつながっています。もし、罪を犯したことがないと言うなら・・その人は神を偽り者とします。聖書には私たちは皆、罪人であると記されています。 私たちはクリスチャンです。ですから、イエス様を信じ、罪を犯しません。ところが、人は皆、弱さを持っているので、罪を犯してしまいます。その時、私たちをとりなしてくださる方はイエスキリストです。 イエス様は世全体の宥めの供え物です。それゆえ、私たちはイエス様に祈り、聖書を読み 、教会に通い、真理の光の中を歩んでいます。しかし、そのような行為は罪ある私たちにはとうてい無理な話です。けれども、そのような歩みが完全でなくても、できているならば、神が私たちを導いてくださっている証拠なのです。つまり、神を知り、真理の内を歩み、神の愛が全うされているのです。 しかし、ヨハネの手紙を読むと、完全に罪を犯していない時だけ、神の愛が全うされると読むこともできます。 2 章の


5つのパターンのもし・・なら
2021年2月14日 ヨハネの手紙第Ⅰ 1 章 5-10 節 今日の箇所には5 つのもし…ならが出てきます。最初は 6 節の「もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら・・」です。これも、グノーシス主義と深いかかわりがあります。当時のグノーシス主義は心、たましいは聖いものである。だから、一度、きよめられたなら、どんなことをしても聖い 、 という思想がありました。自分たち の心、 たましいはきよめられているのだから、何をしてもかまわないと、不道徳を平気で承認している人々がいました。ヨハネは言います。もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら・・、それは偽りであり、真理を行ってはいないとはっきりとグノーシス主義を一掃します。そして、次(2番目)は、クリスチャンに対して言います。神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、多くの失敗や欠けや弱さがあったとしても、イエス様の血によってきよめられていくと言います。 3番目のもし・・は。これもグノーシス主義に対する警戒です。たましいはきよいもの、きよいた


よろこびが満ちあふれるために
2021年2月7日 ヨハネの手紙第Ⅰ 1 章 1 4 節 使徒ヨハネはイエス様に格別に愛された弟子です 。十字架では、迫害を恐れて逃げた弟子には混じらずに、一人、十字架の下におり、イエス様からマリアさんを託され、イエス様の最期を看取りました。 イエス様に出会ったばかりの時は、怒りっぽく、イエス様に反抗的な街に対して「イエス様の力でこの町を焼き尽くしたらいかがですか」等言っていました。しかし、イエス様を信じてからはとても、穏やかな使徒になりました。晩年 、イエス様の教えが曲解される 教え が強くなると、正しい信仰の継承のために、ヨハネの福音書、ヨハネの手紙第Ⅰ,Ⅱ,Ⅲを書きました。さらに、迫害も激しくなり、ヨハネ自身もパトモス島に流され、そこで、ヨハネの黙示録を書きま す 。新約聖書の中でも、ヨハネが記した割合は多 く、神様に用いられた使徒でした。ヨハネが生涯語り継いだ メッセージは一つです。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」ヨハネ


教会に栄光がありますように
2021年1月31日 エペソ人への手紙3章20節~4章16節 栄光とは輝かしい誉れです。ほめたたえられることです。 先週、上田西高校が初めての選抜出場を果たしました。今から、試合が日曜日にあたらなければ良いなと思います。上田市の誉れです。 私も嬉しくなります。教会に栄光があるようにとは、教会は天的にも、地上でも、ほめたたえられる存在です。あるいは教会に集っておられる、一人、一人が天において、地においてほめたたえられる教会です。 今、コロナ禍の中にあって、動画配信で礼拝を守っておられる方がおられます。動画配信を見ておられるその場所も実は、教会です。エペソ書1章22節にはキリストを教会に与えられました、と記されています。つまり、一人でも、二人でも、あるいは家族であっても、イエス様を信じている人が集まるならば、その場所は素晴らしい教会になります。 また、123には、教会はキリストのからだであり、すべてのものを満たす方が満ちておられるところです、と記されています。教会にはイエス様が聖霊様が父なる神様が満ちておられます。 旧約聖書のエゼキエルの時代、今から