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私の幸いは主にある


2023年11月5日説教 詩篇 16:1~11 *1

 この9月の末にかつてご奉仕していた福島県の郡山にあります教会をお訪ねしました。目的は私たちが高齢者になりましたので元気な間にお会いしたいと思ったからです。牧師ご夫妻を含めて多くの兄弟姉妹にお会いし、喜びのときが与えられました。 

その兄弟姉妹たちの中には試練や苦しみを経験されてきた人たちも多くおられます。息子さんやお兄さんを亡くされたり、ご主人が先物買いで失敗しその借金返済のために2回も立派な家を手ばなされたり、本社の計画倒産で一夜で工場を失ったり、ご主人が重い糖尿病のため、30数年、昼夜介護されたり、生れたお孫さんが重度の障害者であったり試練と苦しみの中を通って来られました。

そのような中で嬉しかったことはある家庭で聖書の学びの会を開いていたのですが、転任後2人が受洗されたこと、4名の召された兄弟姉妹を除いて皆さんが変わらずイエス・キリストにある信仰を持ち続け教会生活に励んでおられたことです。

私は兄弟姉妹との交わりを通してイエスさまが「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)と言われたみことばを思い起こしました。人生には私など経験したことのない多くの試練や苦しみがあり、それはクリスチャンであっても同じです。しかしイエス・キリストの十字架による救いに与った者はそこで終わらないで、信仰による恵みの世界があるのです。

そこでこの朝は「私の幸いは主にある」という題で試練や苦しみのなかでも主に信頼していくなら揺がない生涯を送ることができることを詩篇16篇より学びます。


第一 あなたこそ私の主 1~4節

この詩篇の標題の「ミクタム」とは「黄金」の意味ですが、ダビデの黄金のような信仰体験が歌われています。ですから全体として、神への信頼がとても力強く歌われていますし、希望に満ちた思いが溢れている詩篇であることが分かります。たとえば、8節とか11節は一度読むだけでもそのことがよく分かります。お読みしてみます。

ところが、始まりは「神よ、わたしをお守りください。私はあなたに身を避けています」(1)という必死の叫びになっています。たぶんダビデはこの歌を、サウル王に追われてユダの荒野をさ迷い歩いたときか、ペリシテの地に亡命して気が狂ったような言動を取り命が守られるという苦しい逆境の中にあったとき、歌ったのではないかと思います。

ダビデは、苦しいときの神頼みのような思いでこう叫んだのではありません。同時に、人間的に安全な方法、逃れる道が他にないのでやむを得ずこう叫んだのでもありません。彼は常日頃から「私はいつも主を前にする」(8)生活を送っていたので、唯一の真に頼ることができる神に向かって叫んだのです

皆さんの中にはレーナ・マリアさんというゴスペルシンガーをご存知の方もおられると思います。生れたときから両腕がなく、左足が右足の半分しかない重度の身体障がい者の方です。日本にも何度もおいでになり賛美したり、テレビなどでも証しされました。ソウルオリンピックの開会式では「アメイジンググレイス」を歌われ感動したことを忘れることができません。彼女はインタビューで必ずと言っていいほど「あなたは体の障がいがありながら、全然弱音を吐かないし、そうかと言って、無理して頑張っているように見えない。どうして、そんなふうにしていられるのですか?」と質問されるそうです。そのとき、「どんな時にも、神さまは私を見捨てられないし、信じる者に前向きに生きる力を与えてくださるからです」と答えられるのです。

へブル人への手紙13章5節でイエスさまが「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と約束しておられます。その後の8節では「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」と「あなたを見放さず、あなたを見捨てない」イエスさまは今も生きておられ永遠に変わることのないお方なのです。困ったことや苦しいことが起こったとき、ダビデのように完全に頼ることができる神、イエスさまを知っている人は、苦難が伴う人生を勝利に導くお方をもっているのです。

それで2節で、「私は主に申し上げます。『あなたこそ 私の主。私の幸いは あんたのほかにはありません。』」と歌っています。どんな人でも、心の中に、必ず空洞があります。神でなければ満たされない部屋があるのです。でもそれに気づかないで、その部屋を満たそうとして神の代りに、お金や物、地位や名誉、さまざまな知識といった代用品で、心の部屋を満たそうと努力する人が多いのです。しかし、それで真に心を満たされることはありません。心を満たして幸せを与えてくださるのは唯一の神さまだけです。

ある年の夏期休暇に私たちは山形県の寒河江にある病院を創立された医師のことを知りたくて訪ねたことがあります。その医師は既に召されていましたがクリスチャンでした。

戦後間もなくのことです。そのお医者様(当時医師はこう呼ばれていました)が1年に1、2回訪問する町の富豪の家がありました。人力車に乗ってその家を訪問するのですが、家の敷地の奥の離れに結核を患ている女性の方がいました。1日一回朝3食のお食事が運ばれてくるだけで家族とも誰とも話すことも顔を合わせることはありません。結核は死の病と非常に恐れられていたからです。お医者様が往診にいきますと「お医者様、私の話を聞いてください。」と言われるのですが、こんな惨めな女性の話など聞いて何になると毎回無視おられました。あるとき、白衣を掴んで懇願されるのでやむを得ず聞かれました。「お医者様は私を哀れな女性と思われるでしょうが。私は幸せなのです。それはイエスさまによって救われ心満たされているたからです。」そのお医者様はびっくりしました。結核のため恐れられ家族にすら見捨てられたのも同然のようなこの女性が、「私は幸せなのです」と言われたからです。そのお医者様はこの女性にこのように言わせるイエス・キリストを知りたいと思い教会に行かれるようになり救われたのです。またこの医師を通して何人もの人が救われました。

実に神さまは苦難のときでも真に頼れるお方であり、いかなる人の心をも満たし溢れさせてくださるお方です。このようなお方はイエスさま以外にはないのです。


第二 主は人生を導かれる方 5節~7節

5節の前半の「主は私への割り当て分また杯」とは「主こそ私の相続財産、また宝のようなお方」という意味です。つまり「私にとっては神さまこそこの世の物質的なものやどんな価値あると思われるようなものやどのような人とも代えることのできなお方です」という意味です。それを端的に信仰告白しているのが教会福音讃美歌の465番「キリストにはかえられません」という賛美です。開いてください。1節だけお読みします。『キリストにはかえられません 世のたからもまた富も このお方がわたしに 代わって死んだゆえです 世の楽しみよ去れ 世の誉れよ行け キリストにはかえられません 世のなにものも』。人生のどんな危機にも曲がり角にも心砕かれ信じ、祈り、受け止めるときイエスさまは大きな愛や喜びや力や平安で満たしてくださるお方です。

5節の後半に「あなたは私の受ける分を堅く保たれます」は共同訳では、「主はわたしの運命を支える方」と訳されています。つまり「運命」に左右される生活から守ってくださるという意味です。「運命」というのは、私たち人間を越えた、何かある力が私たちを捕らえ、私たちの人生を支配するように考えます。ですから、そこでは、どうしようもないというあきらめ、無気力になったり、あるいは運命を呪うというようなことが起こってきます。

東京の大きな病院に勤務している姉妹がおいでになり証しされたことがあります。その病院の同僚の看護師の方々の中には手相や星占いなどで日々の運命を調べ、今日は良い日だ、悪い日だとそういう思いに囚われて一喜一憂しながら日々過ごしているというのです。自分も救われる前はそういう生活を送っていたけれどもイエスさまによって救われてからはそのような一喜一憂するあきらめの日々から解放されたということです。

ところがイエスさまは「明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します」(マタイ6:34)と言われました。神は明日のことを心配するよりも明日を支配する神に信頼することを繰り返し命じておられます。私たちの人生における、偶然の出会いや偶然の事故また幸運ということの全ては神の御手が働いています。私たちは自分の人生を本当の意味でコントロールできませんが、私の主である方こそは、私の人生をコントロールすることがおできになるのです。それでイエスさまは、「そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません」(マタイ10:29)言われたのです。ここにイエスさまによって運命だ宿命だというような人生から解放される生き方があります。  

6節に「割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい私へのゆずりの地です」。と言われています。イスラエルの民はモーセに導かれて40年の長い旅を終え、約束のカナンの地に入り、先住民と戦いいよいよカナンの地に定着するようになりました。そこで、部族ごとに土地を分配することになりました。その「割り当ての地」土地を分配するときに、「測りなわ」という縄をなげることによって、それぞれの部族が与えられる割り当ての土地が決まるのです。部族が土地を得るとき、自分の好み、自分勝手に選ぶのではなくて、その「割り当ての地」は神のみ旨である信じて、その地をいただくのです。そのように、クリスチャンも私たちの人生の一つひとつが神のみこころによって導かれていると信じることです。その神のみころに導かれた道こそ最も素晴らしい道なのです。それをクリスチャンは生涯かけて経験していくのです。私も自分の思うように計画通りにならなかったことが多々在りました。けれども人生の晩年を迎えて愛なる神さまの導きであったと心から感謝しています。

若いときに糖尿病になり、毎月1回静岡から東大病院に通い診察治療を受けながら生活しておられる姉妹がおられます。糖尿病で片目を失明され、食べ物は厳しい制限があります。あるとき、「お辛いでしょう」とお声をかけると、「私はとても頑固で自己中心な者でしたから、この病気にならなければ砕かれて救われることはなかったと思います。それで感謝しています」と言われました。それは糖尿病になったことを恨むのではなく、自分が不幸と思える病気になったのには神さまのみこころがあったと信じて受け入れられたのです。そのときこのことは不幸なことではなく救われキリストにある満ち足りた生涯を送ることができるようになったと感謝する生涯に変えられたのです。姉妹はこう言っておられます。「人生の喜びは、思い通りになることや少々の財産を手に入れることにも優って、神さまのご目的に適って生きることにあります。」と。私たちは自分が置かれている場所、家庭や仕事や奉仕が神のみこころによって与えられたものであると感謝して生きるとき主のみ前に悔いのない人生を生きることができます。


第三 主が右におられ、私は揺るがない 8節~11節

8節から終わりまでは、ペテロがペンテコステの日のメッセージに引用した箇所です。ダビデは8節、9節で、「私はいつも 主を前にしています。主が私の右におられるので 私は揺るがされることがありません。それゆえ 私の心は喜び 私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。」と歌っています。

「主を前にしています」とは「主を見ていた」、つまり現実の生活の中で「神の臨在」を覚えて生きることを意味しています。多くの人々は、いつも「人を見て」、「人の顔色をうかがい」、「人の評価」や「人の期待に添う」ように生きやすいのです。もちろんそのように心がけて生きることも一面大切で、そうでないと人生が遊離してしまいます。

しかし、主の臨在を覚え、主がともにおられることを意識して生きることはさらにまさってとても大切です。なぜなら人が生きる目的は、神のみこころに適って生き、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことだからです。このことについてローマ人の手紙12章2節を見てみましょう。「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるかを見分けるようになります。」と言っています。

私が岡谷で奉仕をしていたとき隣町の同じ団体の教会の牧師と親しくしていました。私たちの子どももよく招いてくださり家族ぐるみのお交わりでした。その牧師のお母さんもご一緒に住んでおられました。よく若い牧師がそのお母さんを訪ねていくのです。そのお母さんと交わっていると魂が恵まれ、霊性が引き上げられ霊的な元気をいただくからです。そのお母さんの会話はよく「イエスさまがね。……」で始まるのです。そのお母さんとお交わりをしているとイエスさまが近くにいてくださるということを実感させられたのです。それは私たちが神さまとの交わりを大切にし、神のことばである聖書に聞き従っていくとき聖霊のお働きにより経験できることです。

その結果、「主が私の右におられるので 私は揺るがされることがありません。」と歌えるのです。この「右」というのは責任をもって支え、助けてくださるという意味です。結婚式のとき、新郎が新婦の右に立つのは、その意味です。ですから、私たちは責任もって支えてくださる主を信頼し、ゆだねていくことです。

私が小学生の4年生のとき、学校給食で集団赤痢に罹りました。そして国立病院に入院しました。他の子どもたちは次々に退院していったのですが私は長引き数人となりました。夜、暗い広い部屋で寂しく早く家に帰りたいと泣いていました。ところがその夜当直の看護婦さんが私のベッドの横に来て椅子に座り、歌を歌ってくださりいろいろお話をしてくださいました。そのとき、私はその看護婦さんが横にいてくださることによって子ども心になんともいえない安心が与えられ、とても嬉しい気持ちになったことを今でも覚えています。それで思うのです。詩篇23篇3節に「たとい死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。」とあります。私たちが死を迎えたときイエスさまはこのように傍にいてくださり、平安のうちに天国に導いてくださるのです。死を恐れることはありません。何と幸いなことでしょう。

そして、11節に、「あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。」と歌っています。ここで「いのちの道」とは新約的に考えるとき、イエスさまが十字架上で死んで葬られ死者の中からよみがえられたように新しいいのちにあって歩むことです(ローマ6:4)。その行き先は永遠の「楽しみと歓喜」の世界、天国です。ビリー・グラハム師は「世界の最も美しいところをいくつも集めたよりもっと素晴らしいところ」と言っています。そこはイエス・キリストがおられるところです(エペソ1:18~19)。

山形県の寒河江の医師はご長女の娘さんが3歳のとき結核のため召されます。死の直前、奥様をお呼びになり、ご自分で脈を取りながら、「もうまもなく召される。あなたは若いので相応しい人があれば結婚していいですよ。ただし由美はK家に残してもらいたい。K家は皆クリスチャンなので、由美はクリスチャンになりやがて天国で会えるから」そう言われて息が絶え召されたのです。

太閤秀吉の辞世の歌は、彼が最も栄えていたときに詠んだと言われています。「露と起き露と消えぬるわが身かな、なにわのことは夢のまた夢」と。私たちの地上にあっての生涯は過ぎればあっという間です。私はそれを実感しています。

私たちはもうしばらくとき、試練や悩み苦しみの中を通るかもしれません。しかし、救われたことを感謝し『あなたこそ 私の主。私の幸いは あんたのほかにはありません。』」とのイエスさまへの信仰に立ちつつ、満ち足りた喜びと楽しみの世界に永遠に住むという希望に堅く立って終りまで信仰生涯を全うさせていただきましょう。この朝、改めてイエスさまを仰いで新しい1週間を始めましょう。 


*1 詩篇 16:1~11

16:1 神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。

16:2 私は、【主】に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」

16:3 地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。

16:4 ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。

16:5 【主】は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。

16:6 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。

16:7 私は助言を下さった【主】をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。

16:8 私はいつも、私の前に【主】を置いた。【主】が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。

16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。

16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。

16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。



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