
落ち着く場所
「人はみな草のよう。その栄えは草のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ。」 ペテロの手紙第Ⅰ 1章24節 小学校の教諭をしている友人が、つぶやきました。「基準になるものがないから、何を教えたらよいのか分からなくなる時がある。」と。とても素直で正直な言葉だと思いました。今まで正しいと思っていたことが、10年後には正しくなくなっていることがあると思います。そればかりか、年齢を重ねれば、立場や環境、家族そのものも変化していきます。こんな、揺れ動く人生に落ち着く場所なんてあるのでしょうか。すべてのことが、変わっても、 聖書のことばは変わらないと書いてあります。そう、聖書の言葉は何世紀も変わっていません。そして、聖書を基準に生きていく時、時代、環境、家族、周囲の状況が変わっていっても、いつも、落ち着いて、希望をもって歩むことが出来ます。聖書を読み始めてはいかがですか。落ち着く場所を求めておられるなら、教会にお越しください。あなたの

揺れ動く歴史の礎
ヨハネの黙示録は、イエス様が昇天後、50~60年後に書かれます。ヨハネがパトモスという島に流された時に、見た幻です。しかし、ただの幻ではなく、神様からのきちんとした啓示であることが1節に記されています。また、8節には神様の宣言が書いてあります。「わたしはアルファであり、オメガである」つまり、「最初であり、最後である」です。当時の迫害は恐ろしく、また、厳しいものでした。クリスチャンになるということは、「死」を意味したかもしれません。神様はこのような迫害の中でも、クリスチャンを励ますために黙示録をヨハネに書かせます。そして、歴史を支配しているのは、当時の皇帝でも、権力者でもなく、神様であることを強調します。そして、この迫害はやがて終息し、穏やかな時代がやってくると励まします。その証拠にキリスト教は、やがてローマの国教となっていきます。 現代は、厳しい迫害はありません。しかし、世界情勢を見ますと非常に不安定で何が起きるか分からない緊張した状況が続いています。 そして、私たちの生活も時間の経過とともに少しづつ、変化していきます。それは、教会もそうです。

立ち尽くす瞬間
‥主イエスのからだは見当たらなかった。そのために途方に暮れていると、・・ルカの福音書24章3節 酷い十字架刑のゆえにイエス・キリストは死にました。イエス・キリストを愛していた女性たちが、イエスに香料を塗ろうとしてきました。しかし、イエスの身体がありませんでした。女性たちはショックで立ち尽くし、途方に暮れています。私たちは、あまりにも悲しい知らせを聞くと、立ち止まってしまいます。それは、どうしていいか、分からないからです。自分の小さな力では対処できない大きな問題・課題にぶつかります。もし、時間を戻すことが出来たらと、思う時もあります。でも、無情にも時間は刻一刻と過ぎていきます。 前にも後ろにも右にも左にも行けない時があります。そんな時は、そこに立ち止まってじっとしていましょう。ただ一つだけ、注意することがあります。それは、一人で立ち止まってはいけません。必ず、イエス・キリストの前で立ち止まってください。しばらくすると、不思議ですが次の一歩を踏み出す力が与えらえます。女性たちが素晴らしかったことは、イエス・キリストの墓の前で立ち止まり、途方に暮れてい