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初穂としての主の復活


2024年4月14日礼拝メッセージ

コリント人への手紙第一15:20~28

 

今年のイースターには、ルカの福音書24章から礼拝のみことばが語られました。十字架にかけられ死なれたイエスをアリマタヤのヨセフがお墓にお納めしました。3日目の週の初めの日、日曜日の明け方早くのことです。イエスを愛していた女性たちが、準備しておいた香料を持って墓にやって来ました。心配していた墓を塞でいた石がころがされていて中に入ると、主イエスのからだが見当たらなかったのです。そのとき、まばゆいばかりの衣を着た人が二人彼女たちに近づいて来ました。そして「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」(ルカ24:5)と告げたのです。この後40日間イエスは復活されたご自身の姿を弟子たちや五百人の兄弟に同時に現されるなど13回現されました。

岡谷でご奉仕していたとき、ある兄弟姉妹のご夫婦が開いてくださる年数回の家庭集会に兄弟のお父様が出られるようになりました。元小学校の校長先生で、岡谷市の歴史の編纂をなさった岡谷の町ではよく知られていた名士でした。家庭集会に出られるのですがいつも「神がおられることは信じられるがイエスが神のひとり子で人間となり十字架にかかり死によみがえられた救い主とは信じられない」と言われました。それから何年も経って救われましたが、復活は作り話ではなく確かな出来事なのです。

パウロはこの手紙の15章の1節から19節までで何度もくり返し十字架で死なれたキリストは復活されたのだという、復活の事実について諄々と語ってきました。続いて20節からは私たちの復活がキリストの復活の事実によって、どんなに確実なものであるかを語っています。そこで3つに分けてお話ししてまいります。


 第一 キリストは私たちの復活の保証

それが20節です。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」と。キリストの復活を「眠った者の初穂」だと述べています。初穂とは最初に収穫された束のことです。レビ記23章10節で神は「あなたがたがわたしが与えようとしている地に入り、収穫を刈り入れたなら、収穫の初穂の束を祭司のところに持って行きなさい。」と。イスラエルの民に収穫の最初の初穂の束を神に献げるように命じられました。初穂を神に献げることは、その後その年に得られた全収穫を献げる象徴でした。つまり、初穂を献げることによってその後の全収穫のすべてが神に献げられたことになり聖いものとされたのです。

初穂によって全収穫物が神に受け入れられて聖いものとされたように、最初に初穂としてよみがえられたキリストによって救われた者すべてが神に受け入れられ、義とされ聖い者とされるのです。キリストが初穂として復活されたので、その後キリストによって救われた者もすべてがキリストと同じ復活のいのち(永遠のいのち)をいただき栄光のからだに化せられる祝福にあずかることができるのです。その意味でキリストの復活は救われた者が復活する保証です。

この主張を裏付けるためにパウロは21節以下でアダムとキリストの対比を展開しています。21節の前半の「死が一人の人を通して来た」というのは、契約の代表であるアダムによって罪と死がこの世に入ってきたことを意味します。最初の人類であるアダムは、祝福に満ちたエデンの園に住んでいましたが、禁じられていた善悪を知る木から取って食べた結果、罪と死がこの世界に入り込みました。この死とは肉体の死だけでなく、霊的な死であり永遠の裁きとしての死をも含みます。

そこで、パウロは「死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです」と言っています。契約の代表であるキリストの復活によってキリストによって救われた全ての民に復活のいのちが及ぶのです。アダムにあってもたらされたのは死ですが、キリストにあってもたらされたのは、死者の復活であり死に対する勝利です。それで、パウロは22節で、「アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです」と言っています。

スイスとイタリヤの国境にマッターホルンという高い山があります。ここは世界の登山家が登頂することで大変有名です。ある登山隊が登頂を試みました。ところが、途中で事故にあいました。隊員のひとりが突然足を踏み外して落ちたのです。それから次々と最後の5人目を引きずり落としました。こうして、アルプスの断崖にみんな危険な状態で宙ずりになってしまったのです。ところが最後の5人目の人は足をしっかり踏み締めて、岩にしっかり打ち込まれた斧を握りしめていました。そして一人ずつ渾身の力をふりしぼって救い上げました。彼らの生死は、上に残されたひとりの人のしっかり斧を握って離れない力にかかっていたのです。

イエスの復活は、この一つの出来事にたとえられるのではないでしょうか。主は、罪のためにまさに死とさばきと絶望の谷の中に落ち込もうとしている者を、その谷から引き上げ、永遠の安全に移されたのです。「キリストにあってすべての人が生かされるのです」と未来の受身形で言われていますから、キリストによって救われた者のからだの復活、救いの完成は将来神の恵みによってなされることです。しかしキリストの復活は私たちの確かな未来の復活の保証です。


第二 救いにおける「すでに」と「いまだ」

20節から22節でパウロは初穂としてキリストが復活されたのですから、クリスチャンも必ず復活すると述べました。続いてパウロは23節から24節で、復活の順序について述べています。お読みします。「しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。それから終りが来ます。」ここでパウロは終わりの出来事の順序を三段階で述べています。第一がキリストの復活。第二がキリストの再臨。第三が世の終りです。

なぜこのようなことを述べる必要があったのでしょうか。それには理由があります。それはコリント教会の中にすでに再臨が起こったと主張する人がいたのです。からだの復活でなく、霊的な復活を主張する人たちです。洗礼を受けたときに永遠のいのちにあずかって、そのときすでに復活はすんだという人たちです。だから将来のからだの復活、将来の救いの完成などはない、と主張したのです。救いにおける「今」を強調する人たちでした。しかし、救いがまだ完成していないという「いまだ」の部分が抜け落ちていました。  

そこでパウロは、信仰における「すでに」と「いまだ」をはっきりと区別するために終りの出来事の順序を述べたのです。キリストの復活は「すでに」起こりました。それで、キリストを救い主と信じる、クリスチャンは「すでに」で罪を赦され、義とされ、神と和解し、交わりに生き聖霊に導かれる生涯を送る者とされました。

しかし、同時に、「いまだ」実現していないことがあり、それはいつ実現するのでしょうか。パウロは「来臨」すなわちキリストが再び来られる再臨のときだと言っています。それでパウロはピリピ人への手紙3章20節、21節で「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」と言っています。キリストの再臨のときクリスチャンは復活し新しい栄光のからだに変えられます。同時に新天新地が実現し救いの完成にいたるのです。これは将来のことであり「いまだ」実現していないことです。

ある聖会でこんなお話を聞きました。クリスチャンのご夫婦の一人娘さんが戦後6、7年経った頃アメリカに留学されました。ところが1ヶ月過ぎても2ヵ月過ぎても3ヵ月過ぎても手紙がこないのです。父親は「どうしているだろうか」と心配で心配でたまらなく落ち着かない日々でした。母親は実に冷静で「お父さん大丈夫ですよ。慣れない生活で忙しくしているのでしょう。」と落ち着いていました。4ヵ月もして手紙と写真が届いたのです。手紙によると「慣れない生活で大変だったのでお手紙が遅くなって申し訳ありません。」とのことでした。その娘さんが手紙の中で「生活に慣れたら1,2年のうちに一度帰国します」と書かれていたのです。その日から父親は娘の写真を胸のポケットに入れてそっと写真を出して見て写真の娘に話しかけ待ち続けたそうです。それを母親が傍で見ていて麗しい心温まる様子でしたが「くすくす」笑いたくなるほどの日々だったそうです。

私たちはキリストの復活とキリストの再臨による救いの完成の間に生きています。ですから、私たちの信仰においてこのように「すでに」と「いまだ」を区別して正しく理解し生きることが非常に重要です。ベンゲルという新約の学者は「使徒時代以来、主のご再臨の時まで、目を覚まして待ち望んでいた人はだれも、苦労のしがいがなかった、とい言うことはないだろう。」と再臨の素晴らしさを語っています。私たちもキリストの復活によって救われましたが、いよいよ誰よりも何よりも主を愛しつつ主のご再臨を心から待ち望みたいと思います。


第三 死に対する完全な勝利

続いてパウロは、世の終りについて述べています。キリストが再び来てくださる世の終りまですなわち再臨のときまでこの世はなお悪の力の支配下にあります。しかしことばを換えて言えば、何が起ころうと、歴史がどのような方向に動いていても、神は依然として、王として、永遠者として、不滅のお方として主権を行使続けておられます。聖書には神のご目的を達せられるために、事を成し、様々な人物を用いておられることが記されています。しかし、歴史の中で起こって来るあらゆる事柄が、神のみ心にかなったことばかりではありません。それで、パウロはエペソ人への手紙6章12節で「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです」と言っています。ですから、クリスチャンがキリストを愛しキリストのために生きって行こうとしますと様々な霊的戦い、誘惑、キリストのゆえの犠牲、苦しみが伴い十字架があります。  

ところが24節で「それから終りが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。」この「支配」「権威」「権力」という神に逆らうすべての敵、悪の力をキリストが再び来られる再臨のときに完全に打ち滅ぼされます。

その上で、キリストは「王国を父である神に渡されます」。勝利者として神のもとに帰還し、征服したものを神のもとに引き渡されます。これによって、救い主メシアとしての使命が完結することになります。世界の神に敵対するものは滅ぼされ、完全な意味で、神ご自身が支配される祝福された世界となります。そして、キリストによって救われた者をキリストと同じ復活のからだに変えてくださいます。そして黙示録21章にある「涙もなく、死もなく、悲しみも、叫びも、苦しみもない」(3~4)新しい天と新しい地で永遠の祝福のうちに生きることになります。

パウロは26節で改めて「最後の敵として滅ぼされるのは、死です」と述べています。人間にとって最後の敵は「死」です。死というのは、肉体の死だけでなく、霊的な死、永遠の死も含みます。アダムとエバが罪を犯した結果、人間はこのような「死の支配」に縛られていたのです。しかし、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、初穂となってくださったキリストを信じる者を死の支配から解放してくださいました。それだけでなくキリストと同じ栄光のからだに変えられます。ですから救われた者にとって、死は終焉ではなく、死を恐れることはありません。地上のいのちが終わっても天に凱旋する喜びがあります。

今から40年程前、私は岡谷の教会でご奉仕をしていました。その頃、松本で毎年信州クリスチャン修養会が開かれていました。その年は日本のホスピスの先駆者の一人である柏木哲夫先生が講師でした。先生は淀川キリスト病院に入院されていた一人のご婦人の話をされました。そのご婦人は重い病気でご主人は他に女性がいて家を出たままでした。そのため一人息子は暴走族となり生活が荒れていました。けれども朝夕聞こえてくる聖書のメッセージを通して救われたのです。洗礼を受けてから数日後、柏木先生はご様子を知りたいと病床を訪ねられました。「いかかがですか。洗礼おめでとうございます。」とお声をおかけになったら「イエスさまによって救われて私の人生はこれでよかったのです。」と答えられたのです。キリストの福音は人間的に裕福であるか貧しかを越えた救いがあり、いかなる人生をも解決する力があいます。

しかし、ことは地上だけで終わらないのです。もう一度20節をお読みします。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」と。「眠った者」をよみがえらせる「初穂」となられたので、キリストの再臨のとき、救われた者は一瞬にして復活し栄化されます。内村鑑三先生の「一日一生」という本の中で「一日を大切にする者は一生を大切にする。一生を大切にする者は永遠を大切にするものである。」という名言を残されました。この初穂の恵みと素晴らしい生ける望みを深く黙想し応答し、日々重荷も悩みも心配ごとも一切責任を持ってくださる神を第一にしながら生きる者とならせていただきましょう。


コリント人への手紙第一15:20~28

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。

15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

15:23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

15:24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。

15:25 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。

15:26 最後の敵である死も滅ぼされます。

15:27 「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。

15:28 しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。



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