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受難がもたらした救い


2024年3月10日礼拝メッセージ

イザヤ53:1~12

先週の週報にも掲載されていましたように今年の教会暦ではレント、すなわち四旬節が2月14日(水)から3月30日(土)までの40日間です。その3月24日

(日)から30日(土)までが受難週で、29日(金)が受難日、イエスが十字架におかかりになった日です。そして31日(日)がイースターでイエスが復活された日となります。私たちは受難週を特別に大切にしますが、このレントの期間もクリスチャンは十字架のイエス・キリストを思いつつ生活する大切な日々なのです。

 そこでこの朝は、イエスがお生まれになる750年も前に、やがて世界の救い主がおいでになり、人類の罪を負って十字架にかかって死に、復活され、救いを成し遂げてくださることを預言したイザヤ書53章からお話しします。しかし、正確には52章13節から15節が53章の緒論で53章が本論です。

 52章13節からの預言の要約は、「このしもべであるイエスが罪人として十字架にかかって人々の罪をご自分の身に負って死んでくださったこと。それが人の救いとなるとの確証のため復活されたということ。そして今は天の神の御座の右にあってとりなしていてくださる」ということです。そこで53章の本論に入ります。


第一 しもべの地上の生涯 1~3節

 1節から3節にしもべの地上におけるご生涯が預言されています。2節に「ひこばえのように生え出た。」とあります。これは「切った根や株から芽が生え出る」ことです。また「砂漠の地から出た根のように」とは「少しも潤いのない不毛の地から出た新芽のように」ということです。

 その意味は人となる前イエスは神のひとり子として万物を所有し、御使いから礼拝され、父なる神と申し分のない愛の関係にありました。そのイエスが悪臭のする馬小屋に人となってお生まれくださり地上に来てくださいました。それがクリスマスの出来事であり、地上では貧しい生活を送られ罪に満ちた世に生きられたということです。

 また、「根」とは土の中に張るもので人の目には見えません。イエスは神のご性質をお持ちになって人となられたお方でしたが人の目には分かりませんでした。しかもだれからも理解されることはありませんでした。

 3節では「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」と言われています。これはイエスご自身が病身であったというのではありません。主は世界の創造主でありながら、私たちすべての人間の「病」や「弱さ」を引き受け、「悲しみ」や「痛み」を担うために、あえて私たちと同じ肉体をとられこの世に来られたということです。そのイエスが痛みを負い、病を自分のことのように受け止められて肉体の病や痛みをいやされたのです。それでマタイはイエスのこのいやしのお働きはこのみことばの成就であると言っています。マタイの福音書8章17節を開いてみましょう。「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。『彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。』」と言っています。

 そのように人々を愛されたイエスをだれも尊ばなかったのです。その愛が受け入れられなかったので悲しみの人となられたのです。そしてピラトの前で「十字架につけろ。十字架につけろ」(ヨハネ19:6)と叫ぶ当時の指導者と民衆によって最期は呪いの十字架につけられ死なれました。これがイエスの地上の生涯です。

 このことは、先程讃美しました由木康作詞の福音讃美歌98番「馬槽のなかに」によく表わされています。これは日本の讃美歌を代表するものです。作者がこの詩を書いたのは27歳で、そのとき彼は信仰的な困難に直面し、苦しみのただ中でこの詩を書いたと言われています。この詩はイエスが生涯体験された、生きることの悩み、困難、苦しみを見事に表しています。作者自身がこの詩を通して大いに慰められたことは当然のことですが、今日に至るまでどれだけ多くの人々がその恵みにあずかっていることか測り知ることは出来ません。私もその一人ですがぜひ後程改めて歌詞を味わってください。


第二 身代わりの事実 4節~9節

 4節から9節にそのしもべであるお方の身代りの死の事実が預言されています。ここは二つに分けることができます。

 一つ目は4節から6節で罪の解決のために、イエスが「神にどのように取り扱われたか」預言しています。その罪とは、ここでは「病」「痛み」「背き」「咎」「羊のようにさまよい」「自分勝手な道」などのことばで表現されています。

 「病」とは象徴的に表している「罪」のことです。聖書がいう罪とはいわゆる無知や不手際から生じる過失や落ち度ではありませんし、人間が作った法律を破ることだけでもありません。ここでは「自分勝手な道」とも言われていることを意味します。人間は神に造られた者であり、神のみ心に生きることが最も幸いな人生です。ところがアダムとエバの陥罪以来神を神としないで人間中心に生きるようになりました。その神を認めないで自己中心に生きるのを罪といいます。その結果「皆やっている」「これくらいの事」「ばれなければいいじゃないか」と罪を犯すのです。そしてその罪が人間の人格をむしばみ、その家庭を破滅に押しやり、その人生を狂わせていきます。

 「羊のようにさまよい」とは羊飼いを見失った羊たちのたとえです。その羊は行く先が見えず迷います。それは私たちも罪のために神が分からなくなり一生懸命誠実に働いたとしても人生が最終的にどこに向かうのか、どういう意味がそこにあるのか、死後どうなるのか最も大切な根本的な問いに答えを見いだすことができません。その結果、迷い、虚しい、平安のない人生、死の解決のない人生を送る者となるのです。

 その罪の解決のために救い主となってこの世にこられたイエスの上に神が全世界の不義を、罪をおかれ、打たれたのです。その打たれた傷によって私たちはいやされたのです。4節に「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った」とあり、5節には「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された」とあります。6節には「しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた」とある通りです。

 ここに「私たちの、私たちに、私たちは」ということばが6回出てきます。これは英語では「for us」が使われていて、「私たちのために」とも「私たちの代りに」とも訳せることばです。一点の罪もなく汚れもないきよいイエスがご自分のために十字架につけられたのではなく、その罪のないイエスが十字架上で私たちの罪の身代わりとなり、神にさばかれて血を流して死んでくださったのです。

 二つ目に7節~9節でイエスが「人にどのように取り扱われたか」が預言されています。7節をお読みします。「彼は痛みつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」これはカルバリーの十字架に至る道すがらの光景です。羊はとても従順な動物です。紙を口の前に持っていくと食べてもよいと言われるまで、口を開いて待っているそうです。そのように、見せしめられ、罵られ物笑いのなかで、何の恨みもムッとさえされることなく自らを乱すことなく謙遜のお姿をもってカルバリーに向かわれたのです。

 8節をお読みします。「虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から断たれたのだと。」これが十字架の死です。そのとき、イエスは大声で叫ばれました。「『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マタイ27:46)。神学校の教授がこのことについて、「畏れをもって推測するならば、聖書には書いてないが、父なる神からお応えがあった。それは『捨てられる資格があるので捨てたのだ。』と。その結果『捨てられて当然の私たちが捨てられることのない者とされたのだ。』」と。

へブル人への手紙13章6節を開いてみましょう。私たちは十字架の救いによって神から決して捨てられることのない者とされたのです。人を恐れることなく人から自由にされ、人生において漠然とした不安、恐れからも解放され自由にされたのです。

 「彼の時代の者で、だれが思ったことか」とありますが、イエスの死の意味を悟った者があったであろうか。だれもなかったのです。その上、神にも捨てられた完全な孤独死でした。「生けるものの地」とはただ自分のためにだけ生きているこの世にあって、人のためにご自分のいのちをお捨てになったということです。

十字架は残酷で悲惨な刑です。人々の前で無残な姿をさらし、侮辱の視線の中で苦しみながら死んで行くのです。そんな理不尽な十字架上で人々の前に惨めな姿をさらすことをイエスは甘んじて受けてくださいました。そのイエスの十字架はだれのためだったのでしょうか。それは『私のため、あなたのため』だったのです。

この朝、私のために神に捨てられ裁かれたお方、人々の理不尽な恥ずかしめや苦しみの中で十字架にかかられたイエスは「私のためであった」と改めて信仰もって受け止めて愛の応答をもって生きる者となりましょう(Ⅱコリント5:14~15)。


第三 死を克服するしもべ 10節~12節

 私たちはイザヤ書53章を普通は受難のしもべ、「イエスの十字架の預言だな」と考えて読みます。しかし、実はそういうことだけではありません。それはこのしもべイエスはただ身代わりで死んで終わってしまうというだけではないのです。

 10節をお読みします。「彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」と言っています。「末長く子孫を見ることができ」ということは、死んでしまったら後の子孫など見ることはできないのです。ですからこのしもべが身代わりとして死んだというだけなら、こういうことばは必要ないわけです。また、12節で「わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る」と言っています。新共同訳では「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし彼は戦利品としておびただしい人を受ける。」と言っています。このしもべが死んだままなら戦利品など受け取れませんのでしもべの復活の事を語っているのです。

 イザヤはその頭にいばらの冠をかぶり血だらけになり、両手に大きな釘を打ち込まれて血潮を滴らせて十字架の上でご苦難を受けられたイエスのお姿を見たのです。同時に「末長く子孫を見る」、「強者たちを戦勝品として分かち取る」というイエスの復活を見ました。イエスの復活は、イエスの犠牲と死が神に受け入れられ、救いが成就した。完成したというこということの証拠です。ですから信じ救われた私たちもまた復活し、イエスの復活のいのちにあずかり同じ栄光のからだに化せられ、主ともに御国で永遠に生きる者となります。ここに本当の生ける希望があります。

 コーリー・テン・ブームが書いた「私の隠れ家」という本があります。まだナチスの侵略迫害が始まる前のオランダの平和な時代のことです。この家族の中にお母さんのお姉さんも一緒に住んでいました。その叔母にあたる人タンテ・ヤンスが特殊な病気であと3週間と医師から宣告されました。それを知ったコーリーの両親や兄や姉などがどう告げようかと相談するのです。そこでこの叔母はクリスチャンとして多くの働きをしていました。それでやってきたことを天国の父に持って行けることをもって慰めようとしたのです。「たくさんの子どもや大人向けクラブを立ち上げ、軍人センターを創設したこと。多くの有意義な講演をし本を書いたこと。募金のための尊い働きしたこと等々」を並べて、「ある者は何も持たずに父のもとに行くのに。タンテあなたは多くのものをもって天の父のもとにいけるのよ」と励ましたのです。すると、クシャクシャになった顔で「むなしいわ、むなしいわ、何を持っていけるというの。神さまはそんなものに目も留められないはずよ。」と言ってこう祈りました。「愛するイエス様。私たちが手ぶらでみもとにいけますことを感謝します。あなたはすべてのことを、そう、文字通りすべてのことを十字架の上で成し遂げてくださいました。わたしたちは、生きるにしても死ぬにしても、このことだけを心に留めていればよいのです。」と。タンテは十字架こそ信仰の土台であり人生の土台であると祈ったのです。

 私たちの信仰の本体はイエス・キリストです。その中心は十字架と復活です。これが全てです。この信仰によって罪が赦され義とされ、きよめられ、聖霊によってキリストが内住してくださるのです。また永遠のいのちを与えられやがて天の御国の世継ぎとして主に迎えられるのです。

 キリストの十字架と復活こそ私たちの信仰生活にとって必要不可欠なことです。私たちは十字架によって救われたので神の御前に出て礼拝をささげることができるのです。十字架によって神と和解したので神に祈ることができ神と交わることができるのです。十字架にゆえにやがて神に御前に立つことができるのです。それでパウロは十字架と復活を「最も大切なこと」(Ⅰコリント15:3~8)と強調しています。

 私の心にはいつも詩篇23篇6節があります。「まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。」イエスの十字架と復活による救いだけが人生に真の意味で解決を与えるのです。望みを常に御国におきつつこの地上にあってはこのお方の愛と恵みのうちに保たれつつこのお方に仕えていくのがクリスチャンライフです。


 この朝もう一度十字架のふもとに立たせていただき私のための十字架を感謝し、新しくされ始めましょう。そしてこの十字架以外に救いはないとの聖霊による確信に立ち、この十字架を誇り、人々の救いのために祈りイエス・キリストの救いを伝えて行きましょう。


イザヤ書 53章1~12節

私たちの聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕は、だれに現れたのか。

53:2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。

53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは【主】のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。

53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。



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