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キリストの体なる教会


2023年7月9日 礼拝メッセージ コリントⅠ12:14~27、エペソ 1:23 *1

私が神学校で学んでいたとき、エペソ人への手紙の授業の中で、教授が教会について、このように話されたことがありました。「実際に今、この世にある教会というものがわかれば、これは大したものである。それをわからせるのが教会自体であるのに、ほんとうに今日、教会はそれをしているであろうか。教会がこの世のクラブといったもののような印象を与えているとしたら、これはたいへんなことである」と。

私は神学校卒業後もその言われたことをずっと心に留めながら奉仕していました。あるとき先輩の牧師に「毎年の年次教会総会の前に教会のことをメセージするといいよ。」と勧められたのです。そのとき以来、毎年2月の年次教会総会前の礼拝で数回教会について語ってきました。

ちょうど、救いをどのようなものであるか理解していることと、日々その恵みを経験しつつ豊かなクリスチャン生活を送ることとは違うように、教会がどういうところであるのかを正しく理解し実際に経験して深められていくことがとても大切です。そこでこの朝は「キリストのからだなる教会」と題して、前回に続いて教会について語らせていただきます。

第一 教会は召された者の集まり

私たちが日本語で「教会」と言っていることばは、「エクレシヤ」というギリシャ語が訳されたものです。エクレシヤというのは「召し集められた群」という意味です。自分の罪を認めて、悔い改め、神さまがこの世に遣わしてくださったイエス・キリストは、私の罪の身代わりとなってくださったと、信じ救われた者が、「召し集められた群」のことです。それが教会で、そのため神の教会であるのに、キリストの教会と言われ、私たちの教会も上田キリスト教会と呼んでいます。ですから、聖書の中で教会と言えば、第一の意味は「救い主イエス・キリストを信じて、罪から救われた人々の集まり」を指しているのです。つまり建物のことではなく救われた人々の集まりのことです。

エペソ人への手紙1章4節で「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」と言っています。パウロはガラテヤ1章15節では「母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神」とも言っています。私たちお互いは愛なる神さまに選ばれて救われ上田キリスト教会の一員とされたのです。

初陣の地の教会である姉妹が祈祷会などで祈られるとき「この世には私よりも優れた立派な人が多くおられるのに私のような者を先に選んで救って下さり感謝します」とよくお祈りされました。その姉妹の信仰生涯と重ね合わせてそれ以来、神さまがこのような者を「選んでくださった」ということがいつも私の心に留まり続けています。

私たちはきよい主の御前に立ち、自らの本当の姿を知るとき、とても選ばれる資格があるような者であったとは思えないのではないでしょうか。救われる以前の私たちは「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり」(エペソ2:1)と言われているような者でした。そのような汚れた永遠の滅びに向っていた者を神さまはあえて選んで救ってくださったのです。

東北で奉仕していたとき、他教団にとても素晴らしい牧師がおいでになりました。市内の合同の祈祷会でのメッセージでこんなお証しをされました。高校の先生をしておられたのですが、結核にかかられ、須賀川という隣町の結核療養所に入院されました。その療養所にとても美人の女性の方が入院されていたのです。夏のある日亡くなられました。数日後にお別れのためにお顔を見せてもらったそうです。暑さのため腐蝕していてとても正視できないお顔だったそうです。先生は「『背きと罪の中で死んだ者』とは水の上に浮かぶ土左衛門のような者のことで、その汚れた私たちを神さまは愛して選ばれて救われたのです」とおっしゃいました。

私は毎朝、デボーションの初めに必ず十字架の歌を賛美します。この朝も礼拝で121番十字架の賛美を選ばせていただきました。その十字架上で罪も汚れもない神のひとり子イエス・キリストが苦しみを受け、恥ずかしめられ、父なる神に捨てられ、死んでくださり、血を流して贖いをなしてくださったのです。土左衛門のような悪臭ふんぷんする罪人を選んでお救いくださったのです。救われて生きる意味も目的も、生きる希望も新しくされたことを心から感謝して一日を始めます。教会はそのような者が救われ召された者の集まりなのです。

ですから、教会はこの世のどのような集まりや集団とも全く違うのです。ゆるやかに流れている川の表面に、油が流れ出しました。ところが、油は水面に浮かんでいますが、油は決して水になじまないのです。そのように、「この世」というゆるやかな川の流れの上に、「召し集められた群れ」、教会が存在しています。その教会には神が臨在され神が中心で、その教会はこの世の考え、生き方には影響されない全く違った存在なのです。

第二 教会はキリストのからだ

ところで、聖書はどのようないいかたで教会を具体的に表しているでしょうか。①建物にたとえられ「教会は神の住まれる神の国、神殿、聖なる宮」と言われています(マタイ12:28、エペソ2:19~22)。②教会はぶどうの木と枝にたとえられ、キリストのいのちに生かされています(ヨハネ15:5)。③教会は夫婦にたとえられ、「キリストの花嫁」と呼ばれています(エペソ5:23~25)④「教会はキリストのからだである」(エペソ1:23)ということです。

エペソ人への手紙1章23節で「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」と言っているように、教会はキリストのからだであり、その前の22節にありますように、キリストのからだである教会のかしらはキリストなのです(エペソ人への手紙では「キリストが教会のからだ」であることが、コロサイ人への手紙で「キリストが教会のかしらである」ことが語られています)。

コリント人への手紙第一の12章を開いてください。12節に「ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つからだであるように、キリストもそれと同様です。」27節「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です」。人間のからだは頭や目や耳や口や手や足などいろいろな部分からできていますが、一つからだに属しています。そのように、キリストによって救われ召し集められた私たちはキリストのからだであり、私たち一人ひとりはそのキリストのからだの部分、部分なのです。ですから、キリストのからだである教会は、「一つからだである」という一体性と「多くの部分がある」という多様性とをあわせ持っています。

からだの部分、部分が違うようにキリストによって救われたお互いも生まれも、性別も、育ちも、年齢も、家庭環境も、健康状態も、賜物も、この世の立場も全く違います。しかし、違う部分、部分が組み合わされ、キリストにあって一つとされ、キリストのからだである教会に属する者とされ、同じ父なる神を礼拝する神の家族の一員、主にある兄弟姉妹とされたのです。

また21、22節で「目が手に向って『あなたはいらない』と言うことはできないし、頭が足に向って『あなたがたはいらない』と言うこともできません。それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。」と言っています。しかも、お互い一人ひとり違うのですが、どのからだの部分、部分も必要であるように神さまに愛されている大切な存在であり、役立たずで不必要と思われる人は一人もいないのです。

さらに私のこの肉のからだが肉のいのちで生かされているように、キリストのからだである教会はキリストのいのちに生かされているのです。それでイエスさまは「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)と言われました。キリストのいのちに生かされている者が集っているところにはキリストが臨在されるのです。ですから教会の交わりはそこにキリストがおられ、実に楽しいのです。そのために使徒の働きの2章42節以下にある初代教会のように一緒にいて交わりをもつことが大切です。 

その一緒に集まり交わりを持つ教会の姿が目に見えるときが礼拝です。ある牧師が本の中で、「礼拝を『信仰共同体としての見える時』と定義しています。」と語っておられましたが私も同感です。私たちクリスチャンたちは週日、この世界のそれぞれの生活の場に散らされて生きています。ところが日曜日ごとに神の民は見えるかたちで教会に集い現れます(コロナ、病気、色々な事情で集えない人もありますが)。そこで生ける神に礼拝をささげます。共に賛美し、祈り、信仰告白し、感謝をささげ、みことばを聴き、聖霊によって内なる人を新しくされ、新しい一週を始めます。その後、お互いに挨拶し存在を確認し合い、恵みを分かち合うのです。

私の母は62歳で救われクリスチャンとなりました。礼拝をささげて教会から帰りますと「今日は牧師先生に声をかけていただいた。誰々姉妹に声をかけてもらって、お話しできた。」と毎週喜んでいました。その様子を見て、礼拝後の挨拶が大切なことを思わされました。

東北の教会では礼拝後、座席の近い人が交わり祈り合いました。それは助け合い励まし合うためです。クリスチャンはみな、キリストのからだの部分です。ですから教会につながっている全員は互いに結び合っています。人間のからだの諸器官がみな互に依存しており、補い合っているようにクリスチャンもまたお互いを必要としているのです。クリスチャンが、一緒にいて交わることによってキリストの臨在の恵みと知識と経験を分け合う点で最も助け合うことができるのです。

第三 キリストのからだを建て上げる

ところでパウロはローマ人への手紙12章4節で「一つのからだには多くの器官があり、

しかも、すべての器官が同じ働きはしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。」(4~5)と言っています。ここでは、からだの部分のことを器官と表現していますが、「すべての器官が同じ働きはしてはいない」と言っています。私たちはキリストのからだに属しているのですが、からだには目、耳、口、手、足などいろいろな部分からできていて働きが違うように、私たちもお互いの違う賜物をもって主に仕え奉仕するのです。

しかも、からだのそれぞれの部分が、それぞれの立場と賜物を生かして仕え合うとき、からだは全体として成長します。このことについてこんなお話が書かれた本を読んだことがあります。私たち日本人は器用な国民で、二本のハシを用いて食べ物を口に運びます。「手は、『私はいつも運ぶだけであなたはいつも食べている』と、口に対して文句を言いました。口はそれに答えて、『私は噛み砕くだけで、味わっているのは喉の方だ』と言います。すると喉は『私は通りよき管にすぎないので、いい目にあっているのは胃の方だ』と反論したのです。胃の方にも言い分があり、『万事調子よくやっているのは腸の方だ』と気分を害して言いました。その時、腸が『私は皆の働きによって送られてきた食物をただ吸収して、エネルギーとして体中に送り続けいるだけです。それによって手も足も体全体が働き続けることができるのです。また、栄養として送り続けており、そのために体全体は成長することができるのです。だから皆の働きは大切で感謝しています』と言ったそうです。すると、全部の器官が『私は自分を見て不平、不満を言っていたけれどそれは、間違いで本当は役立っていることを知りました』とお詫びしたのです。」

この朝覚えていただきたいことは兄弟姉妹、皆さん全員が、必要であり、イエスさまはあなたの代りになる人はどこにもいないと見て、あなたを選んで救ってくださったのです。この教会に属している人はみなキリストのからだなる教会の大切な部分で、必要な働き奉仕を期待されているのです。だからと言って「あなたは、わたしのからだを形成する一部分だから、しっかりやれ!」と叱咤激励されているのではなく、その部分部分が全体的調和の中で働くことができきるように、それぞれ賜物が与えられているのです。

東北の教会で奉仕していたとき、書道の先生である兄弟が毎週看板を書いてくださっていました。しかし、高齢者になられ、私がお願いして書道は素人のようなある兄弟に代わっていただくことにしました。最初躊躇されたのですが、奥様にも励まされて引き受けてくださいました。最初の頃は一枚書いて奥様の姉妹に見ていただくのです。そして、「ここをこう書いた方がいいね」などと指摘され何枚も書き換えられました。しかし、次第に上手になられました。転任してから何年も経ってお電話しました。すると「神さまのためにお役に立つことができとても喜んでいます!」と元気な声でおっしゃいました。クリスチャンにはこの世の人にない神さまのために用いていただけるというすばらしい喜びがあります。これが奉仕の報いであり醍醐味です。

この朝、「私はイエスさまのために何ができるだろうか。どんな賜物が私にあるだろうか。」とイエスさまに問い、考えていただきたいと思います。あの死海は水を受け入れるだけですから、水は海水になって、魚も住まないのです。ガリラヤ湖は違います。受けて流しているのでたくさんの魚も生き物もいます。神から与えられた賜物を神さまのため、人のために用いることです。その時、あなたも生きるし、あなたの周囲も生きますし、何よりも神さまが喜ばれ、教会を建て上げていくことになるのです。

 私たちは聖霊の助けとお働きの中で、互いに愛し合い、尊敬し合い、協力し合い、配慮し合って、いただいた賜物を生かして、教会を建て上げて行く、一人ひとりとならせていただきましょう。


*1 コリントⅠ 12:14~27

12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。

12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。

12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。

12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。

12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。

12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。

12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、

12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。

12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。


エペソ 1:23

1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。



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