

9月29日必要なことは一つだけ
「・・しかし、必要なことは一つだけです。・・」ルカの福音書10章42節 ヨハネの福音書2章で、イエス様は宮で商売をしている人たちを荒々しく追い出します。私は、もう少し穏やかにされると良いのにと思ってしまいます。イエス様はどうしてこんなに怒られたのでしょうか。私たちの心は、毎日いろいろなことで一杯になります。今日の仕事、家族の不安、うまくいかない人間関係、また、何かの楽しみ、それらは決して悪いことではありません。けれども、そのようなことで心がいっぱいになると、どこかで必ず行き詰まります。時々、心を空っぽにして新鮮な空気を入れるように、聖書を読んでお祈りすることが必要です。一週間に一度、礼拝を守ること、一日に一回、心を空っぽにしてお祈りすることは私たちの心を健やかにします。


9月28日招かれたイエス様
「イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。」ヨハネの福音書2章2節 イエス様は結婚式に招かれました。その結婚式で大きなトラブルが発生します。ブドウ酒が底をつきました。これは、主催者にとっては一大事です。現代、結婚式に招かれて、お食事がなかったら一大事です。それと同じくらい大きなピンチです。皆、慌てています。急いで、お酒を買いに行く人や、どうしようと、途方に暮れいている人もいます。そんな時、イエス様が100リットル以上の水がめに縁までいっぱいに「水」を満たすようにと係の人に言います。今、必要なのは「水」ではなくて、ぶどう酒です。イエス様の発言はさらに会場の混乱を大きくします。そこに、イエス様の母、マリヤ「あの方が言われることは何でもしてください。」と言います。仕方なく、係の人は水を満たします。しかも、100リットル以上の水を。ところが、その水が最高のぶどう酒に変化しました。慌てていた人は、ほっとしました。そして、イエス様は静かに立っておられます。最大のピンチが最高のチャンスになりました。そこに、イエス様が招かれていたからです。私たちの人生は、ピ


9月23日 「これはわたしの愛する子。 わたしはこれを喜ぶ。」
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」 イエス様は大工でしたが、その働きを終えて、30歳で公生涯をスタートさせます。イエス様はいつ頃十字架を意識されたのか聖書には記されていません。公生涯のスタートにバプテスマのヨハネから洗礼を受けられます。イエス様は罪は犯されませんでしたが、なぜ、洗礼を受ける必要があったのでしょうか。 イエス様の洗礼は『人と同じ位置に立たれる』という意味があります。神の子という権威を捨てられて、罪人の側に立ってくださいました。その姿はイザヤ書53章に記されています。人が顔をそむけるほど醜い姿です。そして、十字架上では父なる神様に見捨てられます。けれども、イエス様は積極的に、罪人の側に立って下さいました。その証として、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。そして、父なる神様は『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。』とおっしゃいました。また、聖霊が鳩のようにイエス様のところに降って来られました。その姿は感動そのものです。 しかし、私たちにとって、洗礼の意味はイエス様とは違います。罪が十字架によって赦され、洗礼を


9月21日 信じることは見ること
「・・・とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」 ヨハネの福音書1章50節 ヨハネの福音書はイエス・キリストが神であることを信じるために書かれた書です。信じることの素晴らしさが沢山書かれています。私たちは結果が出ると、信じやすく、逆に結果が出なければ信じません。つまり、目で見て信じるかどうかを決めています。ところが、イエス・キリストは信じるとは結果と無関係であると言っています。信じるとは、結果が出る前からそれが事実であると。けれども、最近は息子と思わせて多額の現金をだまし取る詐欺がありますから、信じることには注意が必要です。しかし、聖書に関しては心配ありません。なぜなら、聖書は初めから終わりまで神のことばだからです。イエス・キリストは私たちの心の罪を十字架によって解決し、日々の生活に未来と希望を与えてくれます。不安定な日々の中、安定した気持ちで日々を過ごすことが出来ます。心の安定はイエス・キリストを神と信じることから始まります。教会は皆さんをお待ちしています。


9月20日久しぶりに動いた心
「・・・そしてその日、イエスのもとにとどまった・・」ヨハネの福音書1章39節 イエス様の弟子となる、アンデレ。この日初めてイエス様にお会いしました。ヨハネの弟子であった、アンデレは、ヨハネがイエス様を見て「見よ、神の小羊」と言われ、そのまま、イエス様の後に着いて。そして、とうとう、泊まっておられる場所にまで行って、イエス様のところにとどまりました。イエス様といろいろな会話をしました。聖書についても教えていただいたかもしれません。そして、不思議なことが起こります。久しぶりに心が動きます。何故か、感動が抑えきれません。思わず、アンデレはお兄さんに駆け寄って「長く待ち望んでいた、メシアに会った」と叫びます。 最近、感動したことがありますか。心が疲れ果てて、道端にきれいに咲いている花の姿にも気がつかない時があります。もし、久しぶりに感動したい、何か、自分が探し求めているものに出会いたいという方は教会にお越しください。不思議と心が動かされます。


9月19日 神の子である証拠
「私はそれを見ました。それで、この方が神のこであると証しをしているのです。」ヨハネ1:34 バプテスマのヨハネは神様から、「聖霊がある人の上に降りて来られるのをあなたが見たのなら、その人こそ、神の子である」と告げられました。そして、それをヨハネは目で見ます。まさしく、イエス・キリストが真の神であることの証拠。 イエス・キリストは現代も私たちに分かりやすく、イエスが神の子であり、私たちの救い主であることを示されます。あちこちでコスモスがきれいな花を咲かせています。夏の次には必ず秋がきます。空気中の酸素は21パーセントを保っています。本当の愛は誠実の中で成長します。人はうそをついたり、人を妬むと心が苦しくなります。でも、人を愛し、赦していく時に心が温かくなります。これは、すべて、想像主であられるイエス・キリストの御業です。そして、もっとそれがはっきりするのは、罪を悔い改めた、私たちの心が十字架の贖いによって180度変えられることです。どうぞ、教会にお越しください。神の子にお会いすることが出来ます。


9月16日「ありがとう」
「感謝する」とは、それほど感謝することがなくても感謝を掘り出すことです。散歩していて、小さな花がさいているのを見つけるようなものです。ルカの福音書17章には、ツァラアトという病気で苦しんでいる人が登場します。ツァラアトは重い感染症で、家族、社会から隔離されます。10人のツァラアトで苦しんでいる人がイエス様によって癒されます。この人たちは喜んで町に行きます。ところが、イエス様にお礼に戻って来たのはたった一人の外国人でした。イエス様は「10人癒されたのではないか。あとの9人はどこに行ったのか。」と言われます。お礼を言いに来たサマリヤ人と9人には大きな違いがありました。9人は身体が病気から癒された人。お礼に戻ってきたサマリア人は、身体も心も癒されたのです。 マザーテレサは、薬やベッドを瀕死の人を優先に使います。助かりそうな人を助けたらいいのにという非難の中、まるでゴミのように亡くなっていく人々を手厚くケアーします。そして、最後にこの人々はマザーに「ありがとう」と言って天に帰っていきます。マザーが最も優先したのは、神様に愛されている人をゴミのように死なせ


9月9日「敵の届かない所」
ダビデはいのちを狙うサウル王の軍隊に取り囲まれていました。絶体絶命、八方ふさがりの中、「向かい立つ者たちよりも高く私をひきあげてください。」と祈っています。 夏休みが終わる始業式の日、自らの命を絶つ小さなお友達がいます。また、終わることのない苦しい人間関係に疲れ果てている人、経済的な戦い、苦しい病、思いもかけない災害。私たちは様々と形を変えてくる敵に弱り果てます。「向かい立つものたちよりも高くひきあげてください」と祈るダビデ。そんな高い場所が果たしてあるでしょうか。敵の網に決して足をとられることのない高い場所。それは、永遠の高みです。人生のあらゆる敵が私たちになし得る最終的なことは、私たちのいのちを取ることです。しかし、殺されても死ぬことのない永遠のいのちを持っていれば、敵の手は届かないはずです。十字架の贖いによって、罪が赦され、天国の永遠を約束されているのがクリスチャンです。 もう一つの高みは、富士山の小学校唱歌です。「あたまを雲の上に出し。四方の山を見下ろして・・」富士山はあたまが雲の上に出ています。私たちも、富士山になったような気分で問題・


9月2日 神へのいけにえは砕かれた霊
この詩篇はサムエル記第Ⅱ11章から始まるダビデの大きな失敗が背景になっています。ダビデは主な家来とイスラエルの全軍を敵地へ送ります。しかし、ダビデは一人エルサレムにとどまっていました。罪は時間とゆとりがある時、私たちを特に狙います。何かに集中して忙しい時、罪から守れますが、何もすることがない時は危険です。ダビデもそのような状況の中で罪を犯します。 罪は人間の知恵や力ではどうすることもできないものです。罪は私たちの血の中に流れています。わざわざ訓練されなくても、教えられなくても、父祖伝来、私たちの中にあるものです。 この世の中で最も美しい姿は、人が神様の前に罪を告白する姿です。「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。・・私は本当にみじめな人間です。」とパウロはローマ書7章で告白しています。ダビデも3節で「まことに、私は自分の背きを知っています。私の罪は いつも私の目の前にあります。」と告白しています。ルカの福音書18章で取税人の祈りをイエス様が評価された記事からも分かります。 人は心の本音と建て前が違うもので