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神を信頼する者の幸い



2024年1月7日メッセージ 詩篇37:1~9  *1

 昨年の12月中旬にこの新会堂が完成し、喜びのうちに24日(日)にはクリスマス礼拝をおささげしました。午後にはキャサリン・ポーター宣教師をお迎えしてハープクリスマスコンサートが開かれました。愛する家族の方々や地域の人たちも大勢集われ大きな喜びと心が満たされるときをもつことができ主に感謝しました。

主の2024年の元旦から1週間が過ぎ、この朝、新会堂で今年の最初の主日礼拝をともにおささげして1年を始めることができることはとても嬉しいことです。

 新しい年が始まって1週間が経ちますが改めて「明けましておめでとうございます。」今年もよろしくお願いいたします。私たちは田中進牧師と川村和臣牧師と教会とお互いのため祈り、礼拝をささげ、主にある愛の交わりを深めるともに伝道に励んでいきたいと思います。

 さて、私たちは今、未知の新しい1年を歩み始めました。けれども、ほんの4、5年前とはかなり世の中が違ってきました。コロナ禍の影響を受け、地球温暖化による自然環境の悪化、戦争、道徳倫理の低下、ITの発達も伴って社会が大きく変化しました。その変化が早く影響は個人に限らず、社会全体を巻き込んで教会のあり方にまで及んできています。しかもこのお正月早々能登地震(私も東日本大震災を経験した者として早急の支援と復興を祈っています)と羽田空港で航空機衝突事故が起こりました。そこから私たちが悟らされることはこれからの1年、私たちが歩んでいく途中で何が起こり、どのような変化があり、どのような経験をするのか、予測できる人は一人もいないということではないでしょうか。

 しかしこの先何が待ち受けているのかわからなくても、私たちを力づけ、励まし、動揺することなく歩むことができるように神はいつも導いてくださいます。この朝開いています詩篇37篇は「いろは歌」すなわち「アルファベット形式」の詩篇です。9節までに悪を行う者に「腹を立てるな」(1、7、8)という勧めが3度出ています。また9節から「地を受け継ぐ者」という表現が5回も出て来ます(9、11、22、29、34)。つまり悪の繁栄に惑わされないで主に信頼して自分の地上の務めを忠実に果たして行く者に、主は地上で報いてくださるという、地上的現実的な約束が明らかにされています。同時に人生は地上だけではないことも覚えつつ『神に信頼する者の幸い』と題して語るように導かれています。


第一 喜びの源なる主

 4節で「主を自らの喜びとせよ。」と勧めています。神学生のときヨブ記の講義の中で講師が賛美するとき「『癒しよりも癒し主。賜物よりも与え主』である『主』をほめたたえるのが本当の賛美です。」と教えてくださいました。そのとき私はイエスご自身ではなく、主が与えてくださる目に見えることを多く求めていたことに気づかされました。そして、すべての良きものはイエスご自身にあるということに心の目が開かれたのです。そのときからイエスから目を離さないで歩む信仰生活が深められていきました。

 伝道者生涯のあるとき深く心が傷ついたことがありました。しかしそれを通してさらに神ご自身を一層知るきっかけとなりました。そのとき与えられたみことばが旧約では詩篇50篇15節「苦難の日(口語訳では「悩みの日」)にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる」。また新約では「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(へブル13:5)というみことばでした。この苦しみをきっかけに神がどのようなご性質のお方であるかがさらに分かるようになり、生活の中で神の恵みをさらに経験すようになりました。

 新約の時代の私たちクリスチャンはイエス・キリストなるお方によって神を見る、神を知るのです。このお正月に東京から小学一年の孫が来ました。その孫が「じじ、見えない神さまがどうしてわかるの」と尋ねました。それで神のひとり子なるイエスさまが人となってきてくださり、そのイエスさまによって神さまを知ることができる。見ることができる」と話しました(そのイエス・キリストを私たちは聖書を通して知るのです)。

イエスもあるとき「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。」(ヨハネ12:45)とおっしゃっています。ですからキリストは見えない神が、見えるかたちとなられたお方です。それで神を見、神を知るためにはキリストから目を離さないで生きていくときに、神の恵を経験することができるのです。そうです。「イエスから目を離さない」ことが神の恵を経験する秘訣です。

 神学生のとき神学校の校長がこのようなお証しをされました。先生にはお子さまが三人おいでになり、うち二人お嬢さんです。そのご長女の方がご結婚されて子どもさんがまだ小さいとき召されたのです。ちょうどクリスマスの時期で、先生は娘さんの葬儀を終えて、その夜、招かれていた教会でクリスマスの特別集会のご用をされました。その説教題が『喜びのクリスマス』でした。先生は「長女が召されてとても悲しい。でもあの関東大震災の中でイエス・キリストよって救われた喜びは少しも変わらないし、娘もクリスチャンで天国では会えるという希望のためとても慰められた」と言われました。

 私たちはこのような者が選ばれ救われたことをどれほど喜んで感謝しているでしょうか。その救い主である「イエスさまから目を離さない」で歩むことにこそ、喜びと恵みの源の秘訣があるのです。へブル人への手紙12章2節では「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」言っています。この年初め、改めて喜びと恵みの源である「イエスさまから目を離さない」日々を送り、このキリストの福音を力強く伝えていきたいと思います。


第二 神に信頼する

 5節で「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」と約束されています。「道」とは「旅」とも訳せることばで、人生のことです。つまり、私たちの日々の歩み、この1年間365日の歩みのことであり、人生の最後までのことでもあります。その人生はどこへ導かれていくかわかりませんが、そのあなたの人生を導かれる神にゆだね、信頼して信仰に生きるようにと勧めています。

 「ゆだねる」には「転がす」という意味があり大きな重い石を主のところに持って行くことです。その重荷を主が転がしてくださり、責任もって解決してくださるのです(マタイ11:28)。

イエスが十字架におかかりになり、お墓に葬られ石の戸で封印され、ふさがれていました。十分な葬りができなかった主を愛する婦人たちが三日目の早朝、お墓に行ってイエスさまのお体に香料を塗るつもりで出かけました。彼女たちの心配はお墓の入口は大きな石でふさがれていていることでした。それで、だれがふさがれた墓の石のふたを取り除いてくれるだろうかと案じながらお墓に来たのです。「すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降り来て石をわきに転がし、その上に座った」(マタイ28:2)のです。このようにして石は転がされました。そのように、主は重荷を転がしてくださるのです。この主にゆだねるとは、すなわち自分自身と自分の人生を、すべてを神にお任せすることです。

 私たちがこれから歩む1年のうちにはいろいろなことがあります。イエスは「この世にあっては苦難があります」(ヨハネ16:33)と言われました。文豪ゲーテは「この世の中には『神はいない』という愚か者はいても、『苦しみはない』という愚か者はいない」と言っています。そうだと思います。私たちが歩む人生ではいろいろな苦しみ、問題に直面します。自分の力では、経験では、知識では、お金ではどうしようもない状況に置かれることもあります。それで、聖書は「主にゆだねよ」と言っています。

 そしてこの約束をされた神はご真実なお方です。パウロはローマ人への手紙で「たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方である」(ローマ3:4)と言っています。私たちが神を信じるというとき、その信仰の根拠となるものは何か、それは、「神の真実」です。私たちが神はきよい、愛なる、義なるお方であるというとき、そのご性質は神の真実によって支えられているのです。たとえば愛ということについて、「私はあなたを愛します」と言っても、その愛というものに真実の裏付がなければ、偽りの愛であったり、事情や状況によって変わってしまうのです。そのような真実で変わらない神にゆだねて信仰によって歩むように勧めています。

 私たちは、何かしようと思うがあの石があるからできませんということが多いのです。しかし、心配することはありません。真実な全能の神がおられて、ゆだねる者のうちに働いて、問題を転がしてくださいます。私たちは人間の限界の中で物事を考えようとしますが、私たちが信じる神は、創造者なる神で、すべてをご支配しておられる愛なる真実なお方として働かれるのです。ですから、主にゆだねる信仰によって生きることが大切です。

 皆さんは三重苦のヘレン・ケラーをご存知だと思います。彼女がこのようなことを言っています。「神さまという友人に対して、素朴に子どものように信頼をささげることは、ありとあらゆるところからやってくる問題を解決してくれます」と。彼女は三重苦の障害を身に持ちながら大学で学び、二つの博士号を得て、生涯を身体障がい者のためにささげ、「光の天使」と呼ばれました。まさに「奇跡の人」でしたが、それは彼女が13歳のときに心の目が開かれ、イエス・キリストを信じ神に信頼し、ゆだねて生きる者とされたからです。幾多の苦難をも乗り越えさせたのは、彼女は愛と真実の神を親しい友とし、幼子のように信頼し、神の前に問題を持って行っては解決を得たからです。

 詩篇68篇19節を開いてみましょう。リビングバイブルでは「主はすばらしいお方です。日ごとに私たちの重荷を担って、救いの手を差し伸べてくださいます」と訳されています。私たちはこの年自分の人生を日々神にゆだね、信頼して歩みましょう。


第三 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て

 7節に「主の前に静まり」とあります。健全なクリスチャン生涯を送るためには日々聖書を読み「主の前に静まり」すなわち「祈り」のときをもつことはとても大切です。

ではどのように祈るのでしょうか。聖書を読み、読み終わって黙想し主の前に静まって祈る時間をもつようにします。まずその日の聖書箇所から教えられたことに応答して祈り、その日一日、神がみことばと聖霊によって支えてくださるよう祈ります。さらに感謝することがあれば感謝の祈りをし、生活の矛盾や誤りや罪を指摘されるなら悔い改めます。次に家族や牧師や教会員やほかの人のとりなしもします。また、自分の願いごとを大きいことも小さいことも神に申し上げてもいいのです。

 祈りは他人に聞かせるものではなく、天の父なる神に親しく話す自然の会話です。どんなことでも心にあることをありのままに神に話せばいいのです。心の中にある小さいことでも、失敗も心配も、ありのまま話せばいいのです。うれしいことも、悲しいことも、また誰にも言えないようなことでも、神にだけ話すことができます。クリスチャンならば、自分のもつ全ての重荷を、主のもとにもっていく特権が与えられています。

4節で「主を自らの喜びとせよ。」5節の「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼し」勧められている道を歩む秘訣は祈りにあります。私たちが祈り聖霊の恵みによってみことばに従って生活するとき神のみことばの約束を生活で経験できるのです。

 ところが、クリスチャンには霊的戦いがあります。1節で「悪を行う者に腹を立てるな。不正を行う者にねたみを起すな」(7b、8)と言っているように神に従って歩んでいるあなたを人が誤解したり非難することがあっても、一時的に、自分の誠実さが通じなくても、落胆してはいけないということです。その上で、「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て」(7)と勧めています。  

 物事が思いどおりに進まないときに何よりも大切なのは、「主の前に静まる」ことです。それは、すぐに主からの答えや慰めが来ることを期待するのではなく、何の変化も起きず、何も見えない中で、なお黙して、主の答えを待ち続けることです。そして、先のことが見えない中で、主の答えを待つことを、「耐え忍んで」と言っているのです。テサロニケ人への手紙3章5節に「主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向かわせてくださいますように」と言っています。キリストこそ忍耐の人でそのご生涯も忍耐そのもでした。

 9節に「主を待ち望む者、彼らが地を受け継ぐからだ。」と言っています。神は最終的に、私たちの誠実さに豊かに報いてくださいます。そして、その報いは、「天国で……」ということもありますが、私たちが生きている「地において」も与えられるものです。このことは夢や幻ではなく現実のことです。そして私も長い牧会の中で経験し、この世において真に幸せである多くの人を見てきました。ですから、物事が思いどおりに進まないとき何の変化も起きず、何も見えない中で、なお黙して、主の答えを待ち続け神に信頼して自分の地上の務めを忠実に果たして行くことが大切です。そのとき、神を信頼する者しか経験できない幸いがあるのです。

 ただし、私たちの人生はこの世だけで終わるのではなく永遠があります。37節でクリスチャンには「……平和の人には未来がある」と言っています。「未来」とは「後のこと」「将来のこと」で、私たちには再臨と復活の希望があります。ところが38節では「しかし、……悪しき者どもの未来は断ち切られる」とあり、神を信じ従わないものにはさばきと滅びが伴います(へブル9:27)。主に従う人生には永遠の希望があり、神なき人生はさばきと失望です。そのとき、すべてのことが明らかになり永遠の幸いが成就するのです。

私たちは地上にあって、神学校の校長先生の上に起こった愛する若い娘さんが幼い子どもを残して召されるという非常な悲しみを経験することがあります。ヘレン・ケラーの苦しも私たちの身において考えるととても耐えられないようなことです。また、私たちの周りでもどうして神さまはこのようなことをお許しになられるのだろうか思われることを見聞きすることがあります。

 私の学んだ神学校にアメリカのアズべリ―神学校の教授であるキングホーン先生が来校され「天国とはどんな所か」と題してお話しくださったことがありました。「日本で生まれた音楽の才能のある女の子が家庭環境に恵まれていて十分な音楽教育を受け、世界的に有名な音楽家となり、多くの人々から賞賛を受ける人生を送りました。ところが同じ頃アフリカで生れた女の子にも音楽的な才能があったのですが飢餓のため8歳で亡くなりました。どうして同じ人間として生まれたのにこんな違いの人生となるのか。神は不公平ではないか、と人々は思うでしょう。しかし、天国に行ってからアフリカの女の子は地上できなかった音楽の才能を生かした生活(働き)ができるのです。それが天国です」と語られました。この地上で不公平、不合理、不可解と思えるようなこと一切が公平になるのが天国です。」

ですから、神に信頼して自分の地上の務めを忠実に果たして行くことが大切です。そのとき、地上で神を信頼する者しか経験できない幸いを、そして天国で永遠の祝福を与えられるでしょう。


*1 詩篇37編 1-9節

悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。

37:2 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。

37:3 【主】に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。

37:4 【主】をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

37:5 あなたの道を【主】にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

37:6 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。

37:7 【主】の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。

37:8 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。

37:9 悪を行う者は断ち切られる。しかし【主】を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。


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