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祈りから生まれるもの


2023年10月15日礼拝説教

マルコの福音書 1:32~39 *1                

私は小学生のときから牧師の家族の一員のようにして育ちましたから朝の目覚めに、3度の食事の前に、夜寝る前に祈ることはごく自然なことでした。小学生になってどうして毎日、3度も4度もお祈りをするのかと思い、牧師に「どうして毎日、3度も4度もお祈りするのですか」とお聞きしたことがあります。すると牧師が「そのように祈ることによっていつも神さまがおられることを覚えて生活するためだよ」と教えてくださいました。子ども心にお祈りはとても大切なことだと思うようになりました。

その私は小学生の頃は1年に1、2度扁桃腺炎で高熱を出し、その度に牧師が家に来てくださり頭に手をおいてお祈りしてくださり、ことばに現わせない温かい平安な気持ちになりお祈りってすごいなぁと思うようになりました。 

さらに就職試験を受けるとき、競争率が高く不安になりましたが、牧師はイザヤ書33章15節「イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。『立ち返って落ちついていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る』のみことばを開いてお祈りしてくださり、恐れ、不安がなくなり落ち着いて入社試験を受けることができました。

そのとき以来このみことばは私の生涯の中で度々不安や困難や恐れを乗り越えるときの力となりました。また後に伝道者となって度々、兄弟姉妹のために開いてお祈りし励ましと力となりました。このようにして祈りの大切なことを学んできました。そこで信仰生活において大切でおろそかにしてはいけない祈りについて学びます。


第一 祈りの人イエスさま

イエスさまに召された弟子たちは、イエスさまに同行しながら主の権威あふれる素晴らしい説教に感激していたと思います。また、悪霊を追い出したり病気を癒したりされる素晴らしいみわざにも目を見張ったことでしょう。最初の頃、弟子たちはそうした見えるもの、語られることに心を奪われていたと思います。

その一緒に伝道の旅を続けていたある安息日の一日のお働きがこのマルコの福音書1章21節から34節までに書かれています。カペナウムの会堂で説教され、汚れた霊につかれた人を癒され、ペテロの姑の病を癒されました。続いてイエスさまのところに来る、様々な病気の人を癒され、多くの悪霊を追い出され真夜中までお働きになりました。

ところが翌朝弟子たちがふと気づいたのです。きのう説教されてその後夜遅くまで癒しのみわざをなされて非常にお疲れになっていたイエスさまです。そのイエスさまと一緒に寝たはずですが、早朝、もう寝床におられないのです。寝床はだいぶ冷たくなっていて、かなり早く起きてどこかに出かけられたようです。いったいどこへ行かれたのかと捜しました。35節~37節までをお読みします。「さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。すると、シモンとその仲間たちがイエスの後を追って来て、彼を見つけ『皆があなたを捜しています』言った」とありますようにイエスさまは人のいない場所に行き、静まってずっと祈っておられたのです。「朝早く、まだ暗いうち」というのは、午前3時から4時頃のことです。

弟子たちはイエスさまと一緒に伝道していた最初の頃は、イエスさまの素晴らしい説教、不思議なみわざに目を奪われていました。ところが一緒に生活している間にイエスさまのもう一つの姿が見えてきたのです。それは、どこかの木陰や岩陰など祈りの場所を見つけて一人で祈っておられる姿、父なる神さまのみこころを求めて祈られる姿です。そして、実は、イエスさまの大きなみわざはこの祈りによって支えられていることを知りました。人々が目を見張るようなイエスさまのみわざは父なる神さまとの交わり、祈りによることを知りました。そのような中で弟子たちは祈りが必要で欠くことのできないことであることを知ったのです。

私も幼い頃から祈ることを教えられ祈りの大切さ、また祈りが聞かれる体験もしてきました。しかし、神学校に入学し学びと訓練を受けるようになり、神学校の教師や先輩の神学生の祈りを聞き、さらに祈りを深めたいと感じるようになりました。あるとき牧師からE.M.バウンンズの名著¨祈りによる力”という本をいただきました。その中で、「神は人を必要とされている。いま教会が必要としているのは、聖霊が用いたもうことのできる人、すなわち、祈りの人、祈りにおいて力ある人なのです。」との一文に出会い強く心打たれ、このような祈りの働き人になりたいと思うようになりました。

あるとき、山口県の教会の礼拝のご用に招かれ出かけたことがあります。その日は礼拝後に瀬戸内海に面した野外で皆一緒に昼食をいただきました。そのとき、牧師夫人が一人の姉妹を示され「あの姉妹は祈りの人です。結婚がうまくいかず1年近く実家に帰っておられたのです。しかし、そこで神さまに取り扱われ、砕かれ、新しくされまた嫁ぎ先に帰ってこられ今は良きご夫婦となられています。この姉妹は祈りの人で牧師に祈りを依頼する人も多くいますがこの姉妹にお祈りを依頼する人も多いのです。「私たちはとても喜んでいます」とおっしゃいました。

イエスさまは祈りの人でした。そのお働きは祈りによるのです。私たちもイエスさまに倣って神さまが必要とされる祈りの人になりたいと思います。


第二 祈りの人になる

弟子たちはイエスさまの権威ある説教、奇跡、病のいやしなどのみわざは神さまとの交わり、祈りから生まれることを知りました。そこでルカの福音書11章1節にあるようにイエスさまに「私たちにも祈りを教えてください。」とお願いしたのです。

世の中には趣味やスポーツや知りたいことなどをいろいろ教えてくれるところがたくさんあります。しかし祈りだけは教えていただいても祈れるようにはならないのです。祈りについて書かれた本を数多く買って読んでも、祈りについて山ほど知識を蓄え、論文を書いたとしても祈りの人になるとはかぎりません。私は多くの祈りに関する本を読みましたが、それはそれで意味があり学ぶことは大切で、祈りの本を読まれることをお勧めします。しかしそれで祈りの人になれたわけではありません。

事実、弟子たちは3年半もイエスさまと共に過ごし絶えずイエスさまの祈りの姿を見てきたのですが、祈りが自分のものとなりませんでした。あのゲツセマネでイエスさまが血の汗を流して涙のお祈りをしているのを見ながら、中心的な弟子たちは眠ってしまいました。もし弟子たちがやがて起こる神さまのみわざに対して祈りのうちに備えることができていたら「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マタイ26:35)と言ってペテロも弟子も誓いながらイエスさまを捨てて逃げるというような失態は演じなかったでしょう。

もちろん、祈りの人になったからといって失敗しないというわけではありません。イエスさまに信頼されていたペテロでも何回失敗しました。ユダヤ人の顔を恐れて律法主義に戻り、パウロに抗議されたりもしました(ガラテヤ2:11~14)。しかし、失敗すること自体は悪いことではなく、それよりも決定的に悪いことは祈らないことです。

ところで、洗礼を受けて間もない人の中には「祈りがうまくできません。」また信仰歴の長いクリスチャンが流暢に祈るのを聞いて「私はあのように流暢に祈れません」と不安気になられる人がいます。しかしがっかりすることはありません。英会話を生れて初めて習った人が初日にペラペラしゃべることはまず無理なように、救われたクリスチャンがすぐに流暢なお祈りができないのはごく自然なことで、特別なことでありません。

私には東京に2歳半になる女の子の孫がいます。毎日のように動画が届くのです。ところがどこの赤ちゃんでも生れてすぐ最初からはおしゃべりできません。けれどもやがてことばがしゃべれるようになり、ママやマンマが言えるようになり、孫も今では何でも思ったことがかなり自分のことばで表現できるようになりました。つい数日前にお風呂に入っている小1の兄に「ちゃんとしずんでね!わかった!のんの!」と声をかけたそうです。まるで姉のような口調で思わず笑ってしまいました。

それと同じように流暢にお祈りされる人でも最初からは流暢にはお祈りできなかったはずです。また流暢によどみなくお祈りできるばかりが素晴らしいお祈りではなく、表現のしかたがわからないながらも、またたどたどしくても、心をこめて一生懸命お祈りすること自体が尊いのです。

私の母は62歳で救われました。実家の京都にいるときは教会の午前5時30分からの早天祈祷会に行きたいのです遠方で事情が許さず数度しか出席できませんでした。ところが私たちが奉仕していた岡谷の教会に来ますと早天祈祷会を階下でしていますのでとても喜んで火曜から土曜までの早天祈祷会に出席しました。お祈りはつまることはありませんでしたが、でも流暢ではありませんでした。和服姿で頭を下げて心を込めて一生懸命祈り、その真実なお祈りに私たち夫婦は励まされました。

私たちはイエス・キリストの十字架と復活の事実によって救われ神の子とされ、永遠のいのちが与えられ御国の世継ぎとされました。その私たちクリスチャンのみに与えられている祈りは特権です。主のご訓練の中で祈りの人に変えていただきましょう。


第三 祈りは人生を変える

祈りの人になると多くの点で人生が変えられていきます。

➀神と共に生きる幸いな人生です。

私は朝のデボーションのときいつも最初に十字架の賛美をささげます。聖書を読み、「十字架上で流された血潮を仰ぎ、罪赦され救われたことを感謝し、今日一日絶えず血潮によってきよめ続けてくださり、聖霊にみたされ、聖霊によって歩むことができるように」お祈りします。祈りの生活はきよい神を見る生活を送らせてくださいます。

信州の教会で奉仕していたとき火曜日から土曜日の早天祈祷会に欠かさず出席しておられた兄弟がよく「人を生かすのは霊であって、肉はなんの役にも立たない」(口語訳 ヨハネ6:63)と祈られました。祈りの人には霊的ないのちが与えられ聖霊による生涯を送る者とされます。本当に私たちが神さまに祈り、主の霊が働かれるとき、「主は私の人生の中で生きておられる」という力強い告白と体験が与えられます。あのウエスレ―は召される直前、ベッドの周りいる人たちに「人生で最も幸いだったことはいつもイエス・キリストが共にいてくださったということである」言いました。

②本当の人生を生きることができます。

祈りの人は神との交わりの中で自分の願いがかなえられるというよりも、自分自身が少しずつ神さまのみこころに添うように変えられつつ成長していきます。自分の生き方も人生の目的も変えられ一番大切なものを一番にする人生を送る者にされていきます。

先週の日曜日、伊那の教会でご用させていただき、その後、以前から親しくしていた姉妹のお家をお訪ねしました。兄弟は2年前に召されたのですが、ご夫妻は祈りの人でした。兄弟は教会でずっと教会役員をされましたが、印刷や掃除(大きな教会なのでリーダーとして)、CSの送迎、CS教師などの奉仕を40年ほどされ教会員のよき模範となられました。 

お仕事は精密関係の技術者で日曜日のゴルフ等の接待は一切お断りになり、韓国などに出張されることがよくありました必ず土曜日には帰宅し自分の教会で礼拝をささげられました。最後の仕事は医師の乗らない移動診療車「INA Health Mobiltiy」への取り組みでした。高齢者や僻地の高齢者のところに看護師が乗って出かけ、テレビ電話を用いて看護師のオンライン操作で医師の診察を受けることができる車です。その仕事は非常に高度な難しいものでしたが兄弟が完成されました。市から表彰され、新聞で大きく報道され高齢者や僻地の病める方々のため今活躍しています。

この世には名声を得る道もあるでしょうし、桁違いにお金を儲けする道もあるでしょう。しかし祈りによって神さまのみこころのままに生き、神と人のため用いられる生涯にまさる幸いはありません。

➂祈によって救われるのです。

「聖書の人物伝」をお書きになった沢村五郎先生がその序で「神の宇宙的大経綸の中心題目は、あがなわれ全うされた人間によってその栄光を全地に現わそうとされることであると、告げている。それゆえ、神の最大の関心事は人の救いと完成である」と言っておられます。聖書は救いについて「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(コリント第一12:3)と言っています。ですから、人が救われるのは聖霊によるのです。そして聖霊は祈るときに働かれるのです。


先日、郡山で一人の姉妹にお会いしました。祈りの人で一人娘さんの姉妹は今牧師です。この姉妹がご主人の兄弟のご両親を救いに導かれました。また「ならぬものはならぬ」のことばのように古い風習の非常に強い会津に住んでおられるご自分のお兄さんと兄嫁さんを救いに導かれました。祈って、祈って訪問され、その度に教会にあった子ども用の聖書物語を読んでお話しされたのです。その結果、二人とも救われました。

私は現役の牧師のとき引退後何をして過ごそうかと考えたとき、ルターのことばを示され「祈りを仕事として過ごそう」決めました。マルチン・ルターは祈りについてこう言っています。「服を作るのが仕立屋の仕事であり、靴をなおすのが靴屋の仕事であるように、祈るのはクリスチャンの仕事である」。ですから、地上から召されるまでクリスチャンには祈りの仕事があります。祈りの仕事がありますから、クリスチャンには失業はないのです。召されるまで現役です。 

私たちはイエス・キリストの十字架によって救われて祈りの特権を与えられました。けれども自分の人生だけのために祈るのではなく、まだ救われていない人々のため、救われた教会の兄弟姉妹のため、そのご家族や教会に求めて来る人たちの救いため、教会が健全に建て上げられるため、世界のため祈るのです。私たちが救われたのは何よりも教会を通してなされる神さまの永遠のご計画の遂行と完成のためです。そのため祈り労する者とならせていただきましょう。35節をお読みします。「さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。」



*1 マルコの福音書 1章32~39節

夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。

1:33 こうして町中の者が戸口に集まって来た。

1:34 イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をいやし、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。

1:35 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

1:36 シモンとその仲間は、イエスを追って来て、

1:37 彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております」と言った。

1:38 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」

1:39 こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。


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