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十字架の直前に


2023年3月19日 メッセージ要約

ヨハネの福音書13章1~15節 *1

 今はレント(受難節)です。イエス様が私たちの罪を贖うためにお受けになった御苦しみをじっくりと味わう時です。静まり、イエス様の受難のお姿を想像し、神様が私たちに語られることを受け取りましょう。今朝は13章の洗足の記事を見ていきます。 


1節にありますように、この出来事は木曜日です。(種なしパンの祝いの第一日、過越の祭りの前日)の夕方、イエス様は弟子たちとエルサレムの二階座敷で「過越の食事」に着きます。この食事には、イエス様が弟子たちの足を洗ったこと、弟子の裏切りの予告、そして有名な「パンとぶどう酒による聖餐の制定」が含まれます。これらの一連の出来事―イエス様がされたこと、語ったことーの中に、神の限りない愛を示す「神の国」の最も奥深い事柄がコンデンスされています。今日は弟子たちの足を洗ったイエス様の行為とその意味について思いを巡らします。


イエス様が弟子たちの足を洗う出来事は、福音書の中にはヨハネだけしか記されていません。弟子の一人イスカリオテ・ユダは、祭司長たちのところに行き、イエス様を売ろうと相談をもちかけ、銀貨30枚を受け取っています(マタイ26:14~16、マルコ14:10~11、ルカ22:3~6)。問題はいつイエス様を「引き渡す」かでした。弟子の裏切りによって引き渡されることは、ご自身の時が来たこと、つまり「父が万物を自分の手に渡されたこと」と表裏一体でした。弟子の裏切りは神の計画を実現する誘因となります。しかしそのプロセスは、イエス様がやみの力に引き渡され、無抵抗のままに、蹂躪され、ありとあらゆる辱しめを受けることです。そうした状況をすべて承知の上で、イエス様はご自分の時が来たことを知られ、弟子たちに対する愛を残るところなく示されたのが、弟子たちの足を洗うという行為でした。もちろん、イスカリオテ・ユダの足をも洗われました。


ヨハネの福音書、1~12章で強調されているのは「いのち」(50回)と「光」(32回)ですが、13~17章では「愛」が強調されています。そこには「愛」ということばが31回出てきます。イエス様はその愛を「残ることなく」これは、「最後まで」という意味と「最大の強さで」という意味を持っていますー示されました。それは、絶えることのない、測りがたい愛です。


足を洗うことは、当時は奴隷のする仕事でした。夕食の間、だれが一番偉いかと話しあっている弟子たちの前で腰に手ぬぐいをまとい、たらいに水を入れて弟子の足を洗い始められました。当惑するペテロに、イエスは「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」(13:8)と言われました。これはイエス様のなされることをそのまま受け取ることがなければ、今後なんのかかわりもないという意味です。イエス様のされることをそのまま「受け取る」ことが、永遠とのかかわりを持つことになります。これが神の国の恩寵であり、私たちは差し出されるイエス様の愛の手をただ掴めばよいのです。


弟子たちの足を洗うという行為は、より深い意味を指し示す象徴的な行為です。「水浴した者は、足以外には洗う必要がありません。全身がきよいのです。・・」(10節)と言われました。この節には「洗う」ことについて二つの言葉が使われています。最初の方の「水浴した」とは、なにもかもすっかり洗うことを意味します。後の「足以外には洗う必要がありません」の「洗う」は、繰り返し、日々洗うことを意味します。かつて旧約の祭司が、任職の時に水で洗われますが、これは一回限りのことです。しかし、その後に彼らが聖所に入るときにはいつでも手と足を洗いました。これは「水」に象徴される「みことば」を通して、日々、悔い改めて罪の汚れからきよめられる必要があるということです。ですから「足だけ洗えばよいのです。」なぜならイエス様とかかわることを通して全身きよくされているからです。これは神様の深い愛を象徴しています。


全身きよいものとされた者が、互いに仕え合うことによって愛を示す、そのところに神の国の支配(御国)が存在します。イエス様の洗足の行為は神の国に生きる者たちの模範でした。それは「しもべ」として愛をもって仕えることを意味します。イエス様は弟子の足を洗う時に手ぬぐいを「腰にまとい」ました。この「腰にまとう」ということばはしもべとしてタオルを腰にまとうことと、謙遜を身に着けることを意味していると思われます。とすれば、イエス様が謙遜をまとうように、弟子たちも同じく洗足の行為をするならば謙遜な心が養われていきます。それは、祝福される行為です。このことはイエスを売ろうという思いをイスカリオテのユダの心に入れた悪魔とは全く対照的です。


イエス様はユダに「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」と言い、闇の中にご自分を引き渡されましたが、それはとりもなおさず、御父が御子を闇の中に引き渡されたことを意味します。しかしそれは福音の中心に踏み入って行くことでした。御父に対する絶対的な信頼がなければとてもできないことでした。


イエス様の洗足の様子を思い浮かべてみましょう。この数時間後に十字架に向かわれます。しかし、イエス様は落ち着いて、弟子たち一人一人との思い出を味わうように足を洗っていきます。弟子たちはイエス様のこの行為に当惑しています。イエス様が足を洗う水の音と何とも言えないイエス様の笑みを浮かべながらの幸せそうな表情が見えます。イエス様にとってはとても大切な大切な時間でした。


もちろん、私たちはこの現場にはいません。しかし、イエス様は私たちの足をも洗ってくださるお方です。

            

先週の祈祷会で「きよめ」のことが語られました。それは、ちょうど若い二人が結婚式で誓約します。牧師が「〇〇〇」。あなたは「〇〇〇」を妻とし、神の定めに従って夫婦の神聖な契りを結ぼうとしています。あなたはこの人を愛し、この人を慰め、この人を敬い、健やかな時も病める時もこの人を守り、その命の限りほかのものによらないでこの人に沿うことを誓いますか。」と問いかけます。そのとき新郎は神の前に「誓います」と答えます。新婦も同様に神の前に「誓います」と答えます。その誓約はとても厳粛で大切です。しかし、「二人はそれからいつまでも幸福に暮らしました。」ということばで終わることなく聖書が教えている結婚を目指して二人で努力して生涯歩まなければなりません。きよめも同様に転機はスタートであって生涯かけてきよめられていくのですが、きよめられ続け成熟を目指さなければなりません(ピリピ3:12~14)。と語られました。


長い間一緒に生活していくと、夫婦は似てくると言われます。それは、毎日顔を合わせ会話をし、お互いの考えを知り、自分の考えもまた知ってもらう。そうこうしているうちに似てくるのではないでしょうか。


私たちはイエス様と日々顔を合わせてイエス様の行いを真似ていきましょう。と同時に、自分の弱さ、醜さ、限界に気がつかされます。その時にもイエス様の前に出て祈りましょう。みことばに親しみましょう。


やがて、私たちも他の人の足を喜んで洗う者となります。お互いに弱さを理解し、受け入れ、励まし合う存在となります。例え、裏切られることがあったとしても動揺しない恵み、強さ、さらにその人をも愛する愛。これは、次元の違うイエス様の愛を心に注がれて初めて可能になります。


更に大切なことは心をチェックすることです。先週はローマ書5章を開きました。「神様との平和」を持っているお互いです。いかがでしょうか?もし、心に平和がなければ、神様の前に出て祈る必要があります。そのまま、平和がないままにしておきますと、それが当然の心になってしまいます。イエス様を信じてはいるが、落ち着かない、平安がない、平和でない、いつも人とトラブル、あるいは、喜びがない、人を愛せない、許せない、怒りが収まらない、不信実、人の救いに興味がない等々・・


でも、皆、工事中です。人は完璧ではありませんし、間違いやすいものです。でも、あまり工事中ばかりを大きな声で言い続けますと、変化のないクリスチャンになる危険性があります。私たちはここでも真実さが求められます。イエス様に近づくことは苦しい、エネルギーを要するものですが、神様の前に出てイエス様の愛に満たされるまで祈り続けようではありませんか?


腰に手拭いをまとい、他者の足を洗う勇気があるでしょうか?あるいは逆に自分の汚い足を差し出す勇気があるでしょうか?さらにはイエス様に足を洗っていただく勇気があるでしょうか?


イエス様は、十字架に掛かる直前に弟子たちの足を洗いました。裏切る弟子にも最後の最後まで悔い改めるチャンスを与え続け愛を全うされました。


イエス様はかの日と全く同じように腰に手拭いをまとい、さあ、あなたの足を洗うよ、と声をかけてくださいます。イエス様の温かな手のぬくもり、惜しみなく注がれる愛を体験していきましょう。人の足を洗う前にイエス様に自らの足を洗っていただきましょう。イエス様の次元の違う愛が私たちの心に静かに注がれていきます。


*1 ヨハネの福音書 13章1~15節

13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

13:2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、

13:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、

13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

13:6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」

13:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」

13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」

13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。

13:12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。

13:13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。

13:14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。

13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

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