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たましいの苦しみのとき


2022年8月21日 メッセージ要約

マルコの福音書14章32~42節 *1

① 目を覚まして、父なる神さまに祈る

イエスさまは、十字架にかかられる前の夜、たましいの激しい苦しみを覚えておられました(14:33-34)。なんの罪もないイエスさまが、十字架にかかって死ぬ。それは、神さまに背き続ける私たちが受けるはずだった、聖なる神さまの怒りをその身に負い、その死によって怒りを宥めてくださったということです。神さまに背き続ける私たちが当然受けるはずだったものは、「神さまに見捨てられる」こと、「永遠の滅び」です。


私たちすべての罪を背負い、恵みとまことに満ち、愛とあわれみに富んでおられる神さまに見捨てられる(15:34)。これほど悲しいことはありません。肉体の痛みという恐怖もあったでしょう。弟子のユダには裏切られ、ペテロをはじめとする弟子たちはみな、自分を捨てて逃げてしまう。神さまはなんでもおできになる。そうであるなら、十字架の死ではなく、違う方法で救いの道が開かれないだろうか。


イエスさまは、この深い悩みの時に、自分の思い、胸の内を、父なる神さまに正直に打ち明けました。「この時が過ぎ去ってほしい」、「この杯を取り去ってください」と。「この杯」とは、十字架の死です。神さまは愛なる方ですが、同時に聖なる方でもあられます。どこまでも聖く、罪を許容される方ではありません。それゆえに、御子イエス・キリストの十字架の死と復活による救いの道が、私たちには必要なのです。


私たちは、時として賢い祈りをしてしまいます。「クリスチャンらしい」と思ってもらえるような祈りであったり、本当はそう思えないのに、信仰に立っているかのような祈りであったり、改まった祈りであったり。神さまをどこか遠くにおられるかのように感じたりすることもあるかもしれません。しかし、主は言われます。「天にも地にも、わたしは満ちている(エレミヤ書23:24)」と。


神さまの主権を踏み越えることはしてはなりませんが、自分を取り繕ったり覆い隠したりするのではなく、心を開いた正直なお祈りを、神さまは喜んでくださいます。


② 弟子たちを伴われての祈り

イエスさまは、一人で退いて神さまに祈ることもできたでしょう。しかし、ゲツセマネに一人で行かれたのではなく、弟子たちを伴われました。そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをご自分の近くに置かれました。神さまの愛する子である方が、「悲しみのあまり死ぬほどです(14:34)」と、弟子たちに心の深い悩みを明らかにされたのです。


イエスさまは、私たちの悩み・苦しみを理解できない方ではありません。それどころか、イエスさまは、私たちの悲しみや苦しみにともに寄り添ってくださり、支えて、助けてくださいます。「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです(ヘブル2:18)」。


私たちは神の家族です。ともに喜び、ともに泣く(ローマ12:15)。痛みも悲しみも喜びも、ともに分かち合い、ともに主を見上げる。二人か三人が主の名において集まっているところには、「わたしもその中にいる(マタイ18:20)」と言われる、主を中心とした交わりがあります。主はあなたを支えていてくださっています。時には、分かち合えない、イエスさまにしか言えない時もあります。そのような時は、無理に言う必要はありません。どう祈ってよいかも分からない時も、聖霊さまが、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださっています。いつもと違うあなたの様子を察知した兄弟・姉妹が、その背後で祈ってくれています。


イエスさまは、死ぬほどの悲しみにあることを弟子たちに告げた上で、「目を覚ましていなさい」「祈っていなさい」と言われました。弟子たちにとっても、これから来る大きな試みを控えて、目を覚まして祈る必要がありました。しかし、「あなたを知らないなどとは決して申しません」と言った弟子たちは、本当の意味で目を覚ましていることはできませんでした。自分たちの思いは燃えていたにもかかわらず、試みに備えることも、イエスさまとともに苦しむこともできなかったのです。


③ 立ち上がる力を与えられて

イエスさまは、「この杯をわたしから取り去ってください」と祈られましたが、そのすぐ後に、「しかし」と続くのです。「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」と。自分の願いを隠しはせず、その上で、神さまの御心がなることを望まれました。「たとえそうでなくても」という、父なる神さまへの絶対的な信頼です。神さまに従って十字架の死を全うし、救いの道を開くことと、その痛み、苦しみ、悲しみというご自身の相反する気持ちの中で、イエスさまは深く悩み、もだえられるのですが、神さまを信頼するということをやめはしませんでした。


3回目の祈りが終わった後、イエスさまは言われました。「罪人たちの手に渡される時が来た」、「裏切る者が近くに来ている」。なんということでしょうか。この杯を取り去ってくださいという願いは聞かれませんでした。しかし、父なる神さまの御心がなるようにとも祈られたイエスさまには、立ち上がる力、十字架の死に向かって踏みだす力が与えられていました。「立ちなさい。さあ、行こう(14:42)」。十字架から逃げ出す誘惑に打ち勝ち、神さまの御心に歩まれました。


私たちは、この世にあっては悩みがあります。それは、クリスチャンになったからといって無くなるものではありません。しかし、イエスさまが世に勝たれたゆえに、勇気を出すようにと言われています。悩みが激しいほどに、何度も祈らされることでしょう。立ち止まることもあるかもしれません。しかし、この主によって、私たちもまた、いつの日か、立ち上がる力をいただくことができるのです。そして、神さまから受ける慰めは、自分だけにとどまりません。私たちは神さまから慰めを受け、それによって、今度は苦しみの中にある人たちを慰める者とされるのです。


「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです(Ⅱコリント1:4-5)」。


*1 マルコの福音書 14章32~42節

14:32 ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」

14:33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。

14:34 そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」

14:35 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、

14:36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

14:37 それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。

14:38 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

14:39 イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。

14:40 そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。

14:41 イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。

14:42 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」


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