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忍耐から得られる報い

2021年1月24日

へブル人への手紙 10 章 32 39 節


へブル人への手紙 は 迫害の中で苦しむクリスチャンに向けて、書かれました。ですから、 32 節の光に照らされた後で苦難との厳しい戦いに耐えた、は、当時、信仰を持つということは命がけ であったことがわかります。例えば、現 在の中国で信仰を持つような 状況 に近いかもしれません。牢につながれている人々とあるように、正しい信仰を持ちながら、犯罪者扱いになることもありました。

このような中で必要なものは「確信」と「忍耐」であると、 パウロは言います。 ユダヤ人の母親がこどもに 教える 最初 の お祈りは就寝前の祈りです。 「いまから私は眠ります。」という祈りです。イエス様の十字架上での最後のおことばは「わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」でした。 つまり、イエス様はマリヤから教えられた子供時代の祈りを祈りました。小さな時に教えらえた信仰は大きくなってもその人の心に確信として刻まれます。「確信」 は動きません。人生の苦しい時に、その人を強く支え るのは、「確信」です。信仰の確信は「救いの経験」です。 十字架経験です。十字架が私の罪のためであったとのスタートが信仰の確信へとつながっていきます。この確信を強めていくためにも、私の罪のために十字架に掛かってくださったことを日々、感謝しましょう。

もう一つは「忍耐」です。 忍耐というギリシャ語の意味は「自分の置かれた 立場・場に固く踏みとどまる」です。しかし、その場所が、へブル人への手紙が書かれていた時代のように困難と迫害に満ちているならば、その場所に固く踏みとどまることは難しいです。現代は、学校で嫌なことがあるならば、無理に通うわせることはしない時代です。

私の時代は熱があっても、学校に行かされました。嫌なことがあっても、行くことが当たり前でした。今は違います。とても、良い時代になったと思います。しかし、 ここでいう、 忍耐は、熱があっても学校に行きなさい、という過酷な忍耐ではありません。

忍耐している時は、力が入っていますね。手をぐっと握りしめ、歯を食いしばり、身体を硬直させて います。どうしてでしょうか。それは、緊張しているからです。熱がある➡家に帰りたい➡教室にいないと行けない➡我慢する これは、家に帰りたいという願いがあります。

でも、家に誰も居ないので、学校にいないといけない、と言う緊張があります。

でも、一方で考え方を変えてみます。例えば、赤い顔をして授業をうけていたら、担任の先生が気付いて、熱があることが発覚し、保健室で休めた。 この場合、同じく学校にいるのですが、緊張はなく、ゆったりと休んでいます。

聖書の 忍耐は、保健室で休んでいるような忍耐です。 つまり、私たちが、どうしても、ここで、頑張らなければいけない、忍耐ではなく、握っている物を手放し、緊張をほぐして、楽になることです。それが、聖書が語る忍耐です。

聖書の忍耐は「自分の置かれた立場・場に固く踏みとどまる」 ことと 「委ねる」ことがセットです。 創世記 50 章 20 節をご覧ください。

ヨセフのことばです。ヨセフは兄弟たちに売られて、自分の力では脱出できな場所で忍耐を強いられました。そのヨセフのことばです。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりになること ができるでしょうか。 あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことの計らいとしてくださいました。 それは今日のように多くの人が生かされるためだったのです。」創世記 50 20 「あなたがたは悪を謀りましたが、神はそれを、良いことの計らいとしてくださいました。」 です。 つまり、委ねるとは「神はすべてのことを働かせて、益としてくださることを私たちは知っています。」ローマ 8 38 と「今、自分の置かれた立場・場に固く踏みとどまる」がセットです。

ハンバーガーとポテトがセットのように、踏みとどまることと委ねることはセットです。そうでないと、いつかポキット折れてしまいます。

もっと簡単に言うならば、「その場所で手を開く」ことです。皆さんが、ぎゅーと神様の前に握っている物を手放すことです。「こうあるべき、こうでなければいけない」という姿勢を柔軟にして、「神様のお考えがそれでよいならば、私は それで結構です。 」と申し上げることです。

ある教会のご婦人がこう証ししました。「これまでは、ください、ください、というお祈りをしていたが、聖書を読んでいくうちに、感謝します、感謝しますという祈りに変えられた。そのときに私の信仰は180 度転換をした」と。何かをください くださいという祈りをしていた時には分からなかった、神様への信頼を感じたと言っていました。

これが 聖書が語る忍耐です。熱がある➡家に帰りたい➡教室にいないといけない➡神様がきっと最善を成してくださると信じる➡担任の先生が熱がある事に気がついてくれた➡家には帰れないけど、保健室でゆっくり休めた➡神様は真実だ➡神様に感謝する ➡母の仕事の大変さを思 う と変わると思います。

その結果何が得られるでしょうか。へブル人への手紙11章36節に記されている「約束のもの」です。9: 15 には「約束された永遠の資産」とあります。

その他、ヨセフのように、生きている間にも神様が与えてくださる約束のものを見ることができます。

さらに、神様に対する信頼、委ねることでの人生の楽さ、あるいは神様が何かをしてくださるという期待、平安、その他、沢山頂けます。

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