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初代教会の姿


2023年6月11日 メッセージ要約

使徒の働き 2章37~42節  *1

韓国の釜山に信徒数2万人、大きな立派な会堂や10階建ての教育館などがある水営路教会があります。私はその教会のチョン・ビルト牧師の講演を2回聞いたことがあります。その水営路教会に私が親しくしている後輩の牧師が訪ねて1週間宿泊して学ばれたことがありました。目的は信徒がどのような教会生活を送るように教えられ、教会が成長したのかその秘訣を知りたいためでした。帰国されてその牧師に「どうでしたか」とお尋ねしますと、「特別なことはしていなくて、初代教会に学び、日本の教会と同じような集会が持たれていた。」と話してくれました。


ところで、現在上田キリスト教会は会堂建設の中にあります。やがて神様は私たちの祈りに、お応えてくださり、新会堂を完成してくださいます。そのために皆さんもそうですが、私も毎日必ず会堂のために祈っています。そのような中で今日聖書のどこから何を語らせていただこうかと思って祈っていた時、先程の後輩の牧師の話を思い出して、今日は使徒の働き2章に記されている、生れて間もない初代教会の姿から語るように示されました。

5月28日(日)のペンテコ礼拝で川村宏美先生が最初の教会の誕生のお話をしてくださいましたが、もう一度簡略に申しあげます。イエス・キリストは十字架につけられ身代わりの死を遂げられて3日目によみがえられました。それから40日後に天に上られました。その10日後の五旬節のペンテコステの日に弟子たちをはじめ120名ばかりの者に聖霊が降り、聖霊に満たされました。その直後にペテロが明快に力強く説教し、救われ、バプテスマを受けて弟子たちに加わった3千人の人々によって教会はスタートしたのです。

こうして、始まった最初の教会生活には特に4つの特徴がありました。42節をお読みします。「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」とあります。その4つの特徴の


第一 使徒たちの教えを守った

ということです。「使徒たちの教えを守り」とあります。聖書を学ぶことは教会生活の土台です。このとき使徒たちは自分たちが3年間イエスの弟子として生活して主から教えられたこと、目撃し経験したことを教えたと思います。しかし、同時に当時は今のように新約聖書がまだない時代でしたから、旧約聖書からも教えたと思います。それによって信徒は養われ、信仰生活を送り教会は成長していったのです。

しかも、新改訳では「守り」が「堅く守った」と訳されていますから、迫害の前兆のような時代の中にあって使徒の教えを本当に信じていいのだろうかというように動揺することなく確信もって聖書を土台とした信仰を守ったのです。

 ここに「いつも」とありますが、聖書を読むときは、「いつも」「心を集中して」聖書を読んだということです。また、聖書は何を教えようとしているのか、また御霊は何を教えようとしているのか、「いつも」教えられやすい心で読んだのです。

 一人の青年牧師が有名な説教者であるスポルジョンのもとに来て、「わたしが聖書の中にある説教の材料を全部、使い尽くしたらどうなるでしょうか?」と言いました。するとスポルジョンは、ニッコリ笑って言いました。「あの小さな魚は、大洋のまん中で、水がなくなったらどうしよう、と言うでしょうか」と。聖書は汲めども尽きない大洋のような無尽蔵の宝庫です。私も毎日聖書を読んでいますが、聖書を読むたびに新しいことを教えられ無尽蔵の恵みの宝庫であることを経験しています。ですから、もし、私たちが聖書を読まなければ、その損失は測り知れないものがあるのです。

聖書は、読む人の心に神が静かに細いみ声をもっていつも語りかけてくださる書物です。私たちの置かれた状況がどうにもならないと思われる時、私たちのなすべきことは神の静かな語りかけを「待ち望む」ことです。詩篇43篇5節に「わがたましいよ なぜ おまえはうなだれるのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。」と言っています。

働き盛りの50代半ばで脳内出血のため左側が半身不随になられた兄弟がおいでになります。食事も会話も一切人に頼っての生活です。会話は少し動く右の手で筆記してされるのです。何度か訪問する中で救われ2021年10月に自宅で病床洗礼をお授けしました。この兄弟は毎朝、奥様の姉妹に聖書を読んでいただき、神の語りかけを聞き、喜び感謝して日々生活しておられます。このような生活は聖書抜きには考えられないことです。愛唱聖句は「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)です。実に聖書は尽きない無尽蔵の恵みの宝庫です。

ですから、クリスチャンは毎日、聖書を読み、神と交わる静かなときを持つと共に、日曜日ごとに、教会の聖日礼拝に出席し、説教者が聖書を通して取り次ぐ神のメッセージを聞き、霊性を養い、信仰においって成長し、神のみ心に応答して生きることが大切です。


第二 信徒の交わり

ダニエル・デフォー原作のロビンソン・クル―ソーの物語をお読みになられた方は多いと思います。機知に富んだ人間が、かなりの時間、全く孤独で生きることができることを示す、感動的な物語です。しかし、ロビンソン・クルーソー的なクリスチャンというものは聖書には存在しません。なぜなら、クリスチャンの交わりは、その生活にとって、あってもなくてもよいものではなく、なくてはならないものだからです。私たちお互いはイエス・キリストの十字架による救いにあずかった者です。私たちは主のものとされ、キリストのからだである教会の部分とされ、同じいのちに生きる、共通の生活に与るものとされたからです。 

ですから、教会の本質は交わりです。すなわち、「信徒の交わり」はキリストの教会がよって立つ大切な要素です。聖書から健全に教えられた正しい交わりがなされていくときに、一人ひとりの霊的いのちは豊かになり、信仰も成長して行くのです。

教会の交わりは、いわゆる親睦的な交わりではありません。これはイエスを通して神と交わるタテの交わりと(Ⅰヨハネ1:3)と「信徒の交わり」というヨコの交わりによって成り立っています。キリストと交わっている者として霊的な親しさを持っている者の交わりです。そのお互いが神の恵みを分かち合い、それぞれがキリストのからだである教会の部分であることを自覚して交わるのです。お互いの信仰が養われ、強められると同時に使命を果たせるように協力し、慰め、励まし、助け合いに満ちた交わりなのです。

交わりの具体例としては、①みことばを共に学ぶ交わり(コロサイ3:16)。②祈りを共にする交わり(ヤコブ5:13)。③奉仕を共にする交わり(Ⅰコリント16:10)。④伝道を共にする交わり(マルコ16:20)、⑤愛と真実な交わり(Ⅰペテロ1:22)などなどあります。

この交わりで大切なことは愛の心です。愛は交わりの潤滑油です。聖書は「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」(ヨハネ第一4:11)と言っています。そして最大の愛は互いに赦し、受け入れ合うということではないでしょうか。神の愛を共に経験している者のうちに生まれる愛、この愛の心が交わりには欠かすことができないのです。この交わりを大切にして教会生活に励みたいと思います。


第三 「共にパンをさき」

教会生活の中心は、毎週日曜日に行われる聖日礼拝です。礼拝は、被造物である人間が万物の創造者なる神に栄光を帰する、何ものにも代えることのできない価値ある尊い行為です。先ほど一緒に交読しました詩篇84篇10節に「まことに あなたの大庭にいる一日は 千日にまさります。」と歌われています。「一日は 千日にまさります。」とは「礼拝をささげる一日は何にも代えがたい最高最大の価値がある」という意味です。

その礼拝式の中で「パンをさき」とは、聖餐式と言われる礼典で、初代教会では礼拝ごとに行われていましたが「見える説教」ともいわれるものです。今日のプロテスタントの教会では、毎月第一聖日の礼拝で行われていることが多いようです。会衆は割かれたパンとぶどう酒によって、①そこに十字架のみわざを覚え、②罪の赦しの恵みを新たにされ、③同じキリストのいのちに生かされいるお互いは、教会の部分であることを確認し、④交わりをさらに親密なものとされ、⑤主のご命令である伝道に共に励み、⑥主の再臨を待ち望むことを確認し、⑦主との深い交わりに入れられ、⑧献身を新たにします。このような意味があるのが聖餐式です。  

本田弘慈先生をご存知の方もおいでになると思います。先生は日本クルセードという超教派の伝道のお働きをしておられましたから、日曜日ご用がない時には近くの世田谷中央教会に出かけ、家族で礼拝を守っておられました。近くのマンションに住んでいるご夫人が、日曜日によく家族で楽しいそうに出かける本田先生ご一家の姿をマンションの3階から見ておられました。日曜日なるとご家族であんなに楽しそうにいったいどこに出かけられるのだろうと不思議でした。ある日、思い切って、教会に向っておられた本田先生に尋ねられたのです。「皆さん日曜日になるとご家族でご一緒に楽しいそうに出かけられますが、どこにお出かけですか」と。本田先生が「私たちはクリスチャンで、日曜日になると教会に出かけて礼拝をお捧げするのです」。するとその夫人が「私も連れていってください」と言われ。教会に行かれるようになりやがて救われたのです。

コロナウイルス禍のためにまたご病気やご家庭や個人的なご事情などのため教会で礼拝を捧げることが困難な兄弟姉妹がおられます。その兄弟姉妹のために私たちは愛をもって祈って行くことが大切です。けれども許される方々が聖日礼拝を守り、聖餐式を重んじることは、クリスチャンが神を第一に生きている信仰告白であり、地域に対するよい証しとなるのです。


第四 「祈りをしていた」

私たちにとって「密室の祈り」が必要であることは言うまでもありません。それは神と一対一でささげる祈りであり、神は喜ばれ、その祈りに応えてくださり、多くの恵みのみわざを経験させてくださいます。私の楽しみは朝の神との親しい交わりです。私たちは霊的なことや実際的なこと、物質的なこと癒しにおいて多くの祈りに答えられたことを経験して来ました。ですから「密室の祈り」は非常に大切です。

しかし、同時に、「祈り合う」ということ、「祈りにおける交わり」も非常に大切です。「祈りをしていた」は、これは個人の密室の祈りではなく、信徒たちが集まっての祈りです。「祈りの交わりは」クリスチャンの結束を強め、恵みを分かち合い、信仰を強め合います。ちょうど煉瓦を積み上げて行く時のセメントのような役割をはたします。肝に一物持ちながら、心を合わせて祈ることはできません。へりくだり心を合わせて祈る時、お互いの心が一つにされるのです。

使徒の働きの12章ではヘロデ王がクリスチャンを迫害し、ペテロを捕らえ牢に入れました。そのとき、「こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」(5)記されています。その結果、祈っていた人々すら信じられないことでしたが、ペテロが奇蹟的に開放されたのです。パウロは「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によっていのりなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい」(エペソ6:18)と勧めています。


1995年1月の神戸淡路大地震の時、西宮のある3階建の教会が半壊しました。教会員の数家族の家が全壊、半壊の家も何軒も出ました。数名が召され教会は悲しみと不安の中でピンチに立たされました。牧師も教会員の兄弟姉妹もこの教会堂の再建は無理と落胆していました。その時、ある教会役員の兄弟が「祈っていて示されました。改修工事をしましょう。」と声を上げたのです。その時、ご聖霊が働かれたのです。そこから、一致の祈りが始まりました。考えられない支援が多方面からもあり教会が再建され、生きておられる神様の不思議なみわざを見たのです。

ビリーグラハム博士がある時、「博士が一つの教会を任され牧師をされたら教会員に何を強調して教えますか」と尋ねられたのです。ビリーグラハム博士は「一に祈り、二に祈り、三に祈り」と答えられたのです。信仰生活は祈りがすべてではありませんが、祈りはとても大切です。私たちは個人の祈りと共に教会での祈りを大切にしたいと思います。

42節に「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」とあり、この朝、改めて初代教会の姿を学びました。「前進は原点に帰ることである」と教えられて来ました。私たちは聖霊の導きと恵みに与りつつ「聖書を学び、信徒の交わりと聖日礼拝を大切にし、個人で祈り、なお教会で一緒に祈る」信仰生活、教会生活に励みましょう。



*1 使徒の働き 2章37節~42節

2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。

2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。

2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

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