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どうしてそのようなことが


2023年12月10日メッセージ ルカ1:26~38*1

  今年は3日(日)からアドベントが始まり今日から第二週に入りました。イエス・キリストのご降誕のクリスマス礼拝とその午後クリスマスハープコンサートが24日(日)に新会堂で開かれます。今からとても楽しみにしています。兄弟姉妹も同様だと思います。

 正確ではなく数年違っているかもしれませんが私は今年72回目のクリスマスを迎えます。クリスマスでは雪の降る美しいホワイトクリスマスのことや楽しい思い出がたくさんあります。それはともかくとして、今日は司会者にお読みいただきましたルカの福音書1章16節から38節の聖書箇所から、救い主の母となったマリアはどのような女性だったのか学びます。


第一 謙遜な女性

 「御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来」(26)ました。一人の処女とはヨセフと結婚しようとしていたマリアです。ガリラヤは都エルサレムから遠く離れた所で、ナザレはその地方でも山の中にある辺ぴな小さな寒村でした。マリアはその村の10代の後半の見た目には特別目立つことのない普通の女性でした。ダビデ家の出とはいえ世は移り変わって今は落ちぶれの身となった貧しい大工のヨセフとすでに婚約していました。一労働者の名もない妻としてその日暮らしをしつつ一生を終わるような運命だったでしょう。

 そのマリアに突然現れた御使いが「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」(28)と声をかけたのです。当時でも、このように、御使いが現わにれるということはまれで新約聖書では4回しかありません。ですから、マリアは御使いが言った「おめでとう、恵まれた方。」ということばを直ちに受け取ることができなくて何事だろうかと戸惑ったのです。マリアは自分の中にはこのように言われるようなものが何もないことを知っていました。どうして祝福されるのか理解できなかったのです。

 さらに御使いはまだ結婚していないマリアに「あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」(31)と告げたのです。するとマリアは「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」(34)と驚きました。そのマリアに御使いは「神にとって不可能なことは何もあ

りません。」(37)と告げたのです。

 この御使いの告知にマリヤは「ご覧ください。私は主のはしためです。」(38)と答えました。「はしため」とは「奴隷女」ということです。さらにマリヤは48節で自分のことを「この卑しいはしために」とありのままに言っています。マリヤは、自分は民の中で卑しい者、神の前では何の価値もない奴隷女にすぎない小さな者ですと言ったのです。

 マリアはイスラエルの辺ぴなナザレという寒村でひっそりと生活していたごく普通の女性でした。大工のヨセフと結婚することに喜びと幸せを感じていました。後世の画家が描いたような美人であったかどうかは分かりません。しかし、謙遜で信仰深く、心の清い女性だったのです。神はそのマリアを選んで神の御子を宿らされました。

 聖書は天使の堕落も人間の堕落もすべての原因はその高ぶりにあったと教えています。謙遜とは、常に自分を神の下に置く、人の下において仕えていく生き方です。神がもっとも嫌われるのは「高ぶり」であり、信仰の成長において最もむづかしいのが謙遜になることではないでしょうか。

 私の先輩の牧師が神学生のときのことです。クリスマスの近いある夜の伝道集会の後、「私は牧師に『先生、恵まれる秘訣を教えて下さい』とお願いしました。すると牧師は窓の外を指さして『あれは何か』と言われますので『あれは雪でございます』と答えました。さらに牧師は『雪は溶けると何になるか』、『水でございます』、『水はどこに流れていくか』『低い方です』と答えました。その時、牧師は『そうです。恵まれる秘訣は謙遜になることです』と言われ、謙遜がいかに大切であるかを教えられた。」と証しされました。

 ペテロの第一の手紙5章5節で「みな互に謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」と言っています。神が選んで用いられる人は、昔も今も、男性である女性であるに関係なく謙遜で信仰の篤い人です。金持や権力ある者よりもまず謙遜で信仰の篤い人、心清い人です。ですから、私たちは家柄や学歴、社会的立場などを誇ったり羨んだりすることなく、今持っている賜物を感謝し神に用いていただけるように謙遜な心で励みましょう。


第二 信仰深い女性

 御使いは「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(28)と、また「あなたは身ごもって、男の子を産みます。」(31)とマリヤに告げました。マリヤは御使いの御告げを受けたとき「恐れた」(30)のですが、私たちが神のお取り扱いを恐れる理由が二つあります。

 一つは自分の無価値のためです。マリアは自分のような者が神に用いていただく価値があるだろうか。神のお役に立てるのだろうか、ということでした。二つには予想される危険です。誰もが平穏無事な今までの道を行きたいものです。マリアはすでに婚約していました。当時は、法的には今日の結婚と同じ拘束力がありました。婚約者が知らない間に身ごもっていたということになるとこれは大問題です。それは、①婚約者のヨセフを裏切ったことになります。また②人々のうわさの種になり、マリア自身が恥ずかし身の置き所のない状況におかれるだけでなく、③家族をも恥ずかしい状況に曝すことになります。マルコはイエスさまがナザレの村で「マリヤの子」(マルコ6:3)と呼ばれていたと書いています。これは不倫の子どもとの揶揄です。見下げた、からかいのことばです。④疑問が解けなければ「姦淫罪」で石打ちの刑に処せられることになりかねませんでした。このまま、何事もなくヨセフと結婚して貧しくとも平和な家庭で生活することが願いでした。ところが、言われ通りに従うとどのような困難や苦しみや悲しみが伴うかもしれません。それは避けたいことでした。

 そこで、マリアは率直に自分の恐れと疑いを御使いに尋ねました。「どうして、そのようなことが起こるのでしょうか。」(34)。このマリアの問いかけは、否定的に、あるいは拒絶的にとられやすいのですが、原意はそうではありません。「どのようにして、それは可能なのでしょうか」と訳せる言葉です。つまり、「男を知らない女から子どもが生れるはずはない。でも、神さまがおっしゃるのであれば、それは可能なのでしょう。しかし、それはどのようにして実現するのですか」と尋ねたのです。

 そこで御使いはマリアに「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生れる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」(35)と答えました。さらに、御使いは、マリアが信仰の理解を深めるために親戚のエリザベツの実例を挙げました。「見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう6か月です。神にとって不可能なことは何もありません」(36~37)。とエリザベツが神の約束のように妊娠していることを伝えたのです。

エリサベツとマリアの場合同じ子を宿したのですが全く違います。エリサベツの場合は人間の常識を超えた老人の妊娠でした。しかし、マリアの場合は処女懐胎なのです。でもいずれにしても人間の常識を超えているのです。信仰とは、常識を超えたことです。しかし、人間の常識を超えたことでも神が語られ約束されたことであればその通りになるのです。それを信じるのが信仰です。

 そこでマリヤは聖霊のお働きとエリザベツに約束どおり成就したことを通して神は「全能の神であり、今後起こるであろうすべての問題を必ず解決してくださる」と全面的に神を信じたのです。そして御使いに「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(38)と答えました。ここに若いマリアのすばらしい信仰を教えられます。

 私たちは信仰をどのように理解しているでしょうか。自分にとって益になること、役立つこと、願い通りになることは信じ、そうでないことは敬遠していないでしょうか。つまり、神のことばを人間の可能性によって信じ、いつも自分が主体、物差しになっていなでしょうか。そうなると神さまよりも自分の方が偉いことになり、神さまを自分の幸福のために仕えていただく存在としてしまうのです。

 詩篇37篇5節で「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主は成し遂げてくださる。」と言っています。初めのうちはそうであっても、どこかで転機的な(明け渡しの)経験をし、神のみことばを全面的に信じ服従し、「神は全能であって今後起こるであろうすべての問題を必ず解決してくださる」との信仰に生きる者とさせていただきましょう。そこにマリアと同じように神さまの祝福と栄光ににあずかることができる秘訣があるのです。


第三 マリアの献身の祈り

 最後にマリアの献身のお祈りです。マリアは御使いを通して神さまがなさろうとしていることを理解して「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」との祈りをもって自分を全く神に献げました。単純ですが勇気をもって神のみこころがなされる舞台として自分を差し出し、手放したのです。このときマリアはまだ神の大いなる計画を全部示され理解していたわけではありません。そのためにどのようなところを通ることになるかもわかりませんでした。しかし、「神は全能の神であり、今後起こるであろうすべての問題を必ず解決してくださる」と全面的に神を信じたのです。そしてマリヤは「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と祈ったのです。その意味は「ここに私はいます。あなたがなさりたいようになさってください」という神さまへの白紙委任状です。

 この祈りが献げられた瞬間、これは非常に短い祈りですが、イエスさまは彼女の内に受胎されたのです。そのとき、一瞬、ヨセフの顔がよぎって乙女マリアによろめきはなかったのかということです。いいえ、あったからこそ、そしてそれさえもささげて委ねて、こう祈れたから尊いのです。マリヤのこの一言の信仰の祈りがあればこそ、神のひとり子であられるイエスさまのお誕生があったのです。

 もう一つマリヤの祈りに救いのすべてはかかっていたということです。これは人間的な言い方ですが、もしもあのときマリアが主の申し出を拒んでいたら、イエスさまのご降誕はなく、十字架もなく、復活もなく、ペンテコステも聖霊によるキリストの内住の恵もなかったことになります。したがって死の解決もなく、生ける永遠の希望もなく私たちは暗黒と迷いと滅びに向って空しく生きることになったでしょう。どれほどのことが乙女マリア一人の信仰と従順にかかっていたことでしょう。しかしマリアは御使いを通して神さまの約束の真実を信じ「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と祈ったのです。マリヤの決断はみことば信仰から来たものです。

 現在私たちは不確かな世の中に生きています。ありとあらゆるものが混沌としていて物心両面で恐慌時代であると言ってよいでしょう。地球温暖化の影響は年々顕著になり、災害被害は甚大です。戦争は絶えず世界的な悲しみをもたらしています。政界も財界も官界も国民から不信を買い、倫理道徳は目を背けたくなるような状況の中にあります。これが真理(これが正しく不変)だと頼れものは何もありません。それだけに、皆不安で不安で仕方がないのです。

 そういうときだからこそ全能の神のみことばに目ざめみことばに頼って生きていくことが大切です。今、先行きのことが読めないとしても、神さまはあなたを通して大切なご計画を進めようとして、あなたの信仰と献身を求めておられます。その意味でクリスチャンがこの時代にどう生きるかが問われています。ときにはつらく、苦しいこと、十字架(犠牲)もあるかもしれません。しかし神さまはマリヤに喜びを与えられました。1章47~48をお読みします。この「神をたたえます。」とは「大喜びする」と言う意味です。神への献身は神からの喜びが満ちます。また、永遠の贖いの目的のため神に用いていただけるという喜びも与えられます。


 私の卒業しました神学校では当時(50年前)は男子寮と女子寮と別々にクリスマスお祝い会をしていました。そのお祝いの席で毎年必ず降誕劇をしました。記憶に間違いがなければ3年生か4年生のとき私が御使いガブリエルになり、マリアに神の御子イエスの受胎を告げました。最後にマリア役の同級生の男子神学生が、彼は演技が上手で、女性の表情と声で最後に「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」とお応えする姿を見たとき、そうだ「この身」を献げて生涯を全うさせていただきたいと献身の思いを新たにされた忘れられないクリスマスお祝い会となりました。

 マリアがイエスさまをお宿ししたのは2千年前ですが、今私たちは聖霊によってイエスさまを内に宿す(内住の)恵みに生きる者とされています。マリアと同じ神さまの祝福にあずかるために、小さい事、大きい事に関係なく与えられたみことばに対して「おことばどおり、この身になりますように。」と明け渡して家庭で、学校で、職場、社会、教会で献身の日々を送る者とならせていただきましょう。またこの福音を証ししていきましょう。



*1 ルカの福音書 1:26~38

1:26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。

1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。

1:28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」

1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。

1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。

1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。

1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。

1:36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。

1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」

1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。


 

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