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兄息子


2023年1月15日 メッセージ要約

ルカの福音書15章25~32節 *1

ルカの福音書15章1節を見ますと放蕩息子の話は当時の律法学者、パリサイ人に語られていることは明らかです。

長くクリスチャン生活をしていくといつの間にか「兄息子」のようなクリスチャンになっていないだろうかと探られます。


「兄息子」のようなクリスチャンの特徴

・喜びを失っている状態。28節には「すると、兄は怒って、家に入ろうともしなかった。」とあります。「兄息子」は他の人と喜ぶことができませんでした。弟が帰ってきて皆が宴会をしている時に、「兄息子」だけは喜ぶことができませんでした。それどころか、怒ってしまって家の中に入ろうともしませんでした。テサロニケ人への手紙第Ⅰ5章16節には「いつも喜んでいなさい」、ローマ人への手紙12章15節では「喜んでいる者たちとともに喜び」とあります。しかし、喜ぶことができない「兄息子」がここにいます。そもそも「喜び」とはクリスチャンの特徴の一つです。御霊の実でも「愛」の次にくるのが「喜び」です。つまりクリスチャンとして成熟している、そのしるしが「喜び」です。イエス様ご自身もヨハネの福音書15章11節で「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために・・」と教え、願っておられます。ヨハネ16:24「・・求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」とあります。ダビデも詩篇16:8,9で「私はいつも 主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。それゆえ、私の心は喜び、私の胸は喜びにあふれます。・・」イエス様もダビデも喜びがあふれることを経験しています。また、イエス様は「喜び」が私たちの内にもあふれるようにと教えておられます。しかし、「兄息子」のようにその喜びがあふれるどころか、失ってしまっていることがあります。


 長年、信仰生活を送っている間に、どこかマンネリになってしまい、いつの間にか喜びが消えていき、惰性でクリスチャン生活を送っていることがあります。あるいはクリスチャンホームで育って、子どものころに信仰をもち、そのまま大人になり、今も教会には来ているかもしれませんが、喜びを深く経験したことがないままで、信仰生活を送ってきていることもあります。仕事が忙しく、様々な問題・悩み事に囲まれ、自分のこと、問題・課題で精一杯で喜びを持つ余裕がない。

特に最近はコロナ禍でいろいろと制限が続く中で、生きづらさ、ストレスを感じて不安しかなく、あれが出来なくなった、これが出来なくなった、という思いばかりで喜びを奪われてしまっています。その結果、喜びがないことが当たり前になってしまっていることがありえます。新しい年を迎えました。この新年聖会で「喜びを失っている状態」

あるいは「喜びがないことはすでに当たり前になっている」ことがないか、それぞれで心を探っていただきたいと思います。私たちが失いがちな喜びを3つお話ししたいと思います。


① 神との交わりの喜びを失ってしまうことがある

神との交わりの喜びとは、神様ご自身を慕わしく思うことです。

そのために神様ご自身を何よりも大切にし、そして、何よりも優先して、その関係を愛するがゆえに求めることです。神様を求めている、神様を愛している、神様が喜びとなっている状態のことです。ルカ15:31「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。」とお父さんから言われています。しかし、「兄息子」は、父親と一緒に、ずっといながら、すぐ近くにいながら、心が通い合っていません。父親の喜びを兄息子は共有することができませんでした。父親の気持ちを理解することができませんでした。心が通いあっていない、一つとされていない。関係の中に「ズレ」が生じています。


このたとえ話に登場してくる父親は父なる神様を象徴しています。ですから、父親側に何か落ち度があったと解釈することは健全な読み方ではありません。神様にも落ち度があるという結論になります。ここに登場してくる兄、弟は父の傍にいながら、悩み、苦しんでいました。私たちはどうでしょうか?救われて、神のこどもとされた。そして、父なる神の交わりに入れられた私たちです。信じているはずです。でも、神様の心が分からない、神様が共にいてくださるはずなのに、どこか遠くに感じてしまう。

神様と一つにされていない。神様のことが後回しになってしまう。そして、それがどこか当たり前になって、そういう自分に、そのような関係に慣れっこになってしまっていることはないでしょうか?神への愛無しに、礼拝や祈りや讃美や奉仕をしてしまっている。出来てしまっている、ということはないでしょうか?探られます。


詩篇の1篇を見ますと「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。」とあります。神のみことばを喜びとするように、そこに幸いがあると教えられています。神との交わりを喜ぶとは、みことばを喜ぶことです。神様とのコミュニケーションを喜び、また、みことばを慕い求めることです。


「兄息子」はどうだったでしょうか?28節にあるように、怒って家に入ろうともしなかった。それで、父が出てきて、兄息子をなだめたと書いてあります。このなだめた、ということばは、ギリシャ語ではパラクレオ―との未完了の動詞が使われています。「なだめ続けている」という意味になります。父親はここで時間をかけている、ことばを使って兄息子に語り続け、なだめている、慰めようとしている、諭そうとしている、でも、29節は「しかし」ということばで始まっています。「しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは1度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ1匹くださったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』父親のなだめようとする言葉、諭そうとする言葉を受け付けません。それどころか、その言葉を跳ねのけようとしている姿がここにあります。パラクレオーという言葉には傍に呼び寄せるという意味があります。神様はことばを通して私たちに近づいてくださるお方、ことばを通してそばに引き寄せ、呼び寄せよせてくださるお方です。みことばを通して、導きたいと願っておられるお方です。そして、みことばを通して私たちにあふれるような、愛情表現をしてくださいます。私たちが必要としている知恵も知識も、導きも、励ましも、慰めも、そして愛情もすべて神のことばから与えられます


でも、兄息子はそのような愛情に満ちた父親のことばを、素直に受け止めることができませんでした。言われたことはやっていたかもしれません。でも、心が伴っていませんでした。父の愛情を受け損ねていました。私たちはどうでしょうか?神様との交わり、 神様のことばを喜ぶ、そのような思いが薄れていないでしょうか?みことばに対する態度、私たちはみことばによって生活、し、行動し、あるいは態度を変える覚悟なしに、ただ表面的に聞くだけの信仰生活、あるいは聞き流すことに慣れてしまっていないでしょうか?神との交わりの喜び、神のことばに対する喜びが、失われていないでしょうか?


② 奉仕の喜びを失ってしまうことがある

奉仕の喜びが失われてしまうことがあり得ます。29節で兄息子は、「長年の間、私はお父さんに仕えてきました。」と自信を持って言える人だったのでしょう。ですから、ある意味きちんとしています。落ち度がない、周りからは「いい息子さんですね。」と言われるような息子だったに違いありません。でも、ここに映っている兄息子は、怒っています、イライラしています、ストレスが溜まっています。何か窮屈そうです。楽しそうではありません。そして何かを無理して我慢しているように見えます。教会で奉仕をすることは本当に尊いことです。これからの1年間も皆で喜んで奉仕が出来ればと願いますが、しかし、神への愛や喜びなしに奉仕をこなしてしまっている、それに慣れっこになってしまっていることはないでしょうか?あるいはやらされているような感覚、あるいは自分だけがやっていて、自分だけが損をしているような思いになっていることはないでしょうか?


ルカの福音書10章にマルタとマリアのお話があります。この場面で常識的な行動をとっているのはむしろマルタです。御客さんが来られてあれこれと準備をするのは当然のことです。しかし、彼女は明らかにイライラして喜びを失っていました。きちんとしようとしていましたけれども、イライラしている。


私たちは毎週礼拝に出席しています。それは出席したいとの喜びをもっているのか、それとも出席しなければいけないからでしょうか?あるいは、そういうことになっているから、あるいは習慣で、惰性で、義務感で出席しているのでしょうか?


詩篇によると礼拝は喜びをもって捧げるものであることを教えられます。詩篇95:1「さあ 主に向かって 喜び歌おう。私たちの救いの岩に向かって 喜び叫ぼう。感謝を持って 御前に進み 讃美を持って 主に喜び叫ぼう。」義務で捧げるのではありません。礼拝は喜びをもって捧げられるものです。でも、礼拝がいつの間にか終わるのを待つだけの時間になっていないでしょうか?あるいは奉仕をとりあえず終わらせるだけのために、あるいは義務をとりあえず果たすだけのために教会に行っていないでしょうか?


あるいは奉仕そのものが大変で面倒くさいから、やりたくないという思いもあるかもしれません。これも、奉仕する喜びが不在である状態です。奉仕する喜びが、神に仕える喜びが、失なわれることがあります。


③ 救霊の喜びが失われている

救霊の喜びが失われてしまうことがあります。弟息子の帰りを喜ぶことができなかった兄息子は、救霊の喜びを失ってしまったクリスチャンの姿ではないかと思います。クリスチャンにとって自分が救われたという喜びは、今度は別の誰かの救いを求めそれを喜びとすることへ変わっていくことが大切です。堀肇先生の本に「寄り添いの小みち」という本があります。その中で「生きている実感というものは、自分の世界だけでは得られません。誰かのために喜んだり、悲しんだり、安心したり、不安になったりすることによって、心は動き始めるのです。」生きている実感というのは自分の世界だけでは得られませんと書いてあります。兄息子は自分の世界だけに生きていました。だから生きているという実感がもてなくなっていた。心が動かなくなってしまっていたのではないでしょうか?自分のためだけに生きている、あるいは自分のことだけでいっぱい、いっぱいの時、堀先生が言われるような信仰の実感、生きている実感がだんだんと薄れていき、そして喜びが薄れていってしまうのではないかと思います。心が動かなくなってしまう。自分の人生、自分の必要、自分の悩み、自分の仕事、そのことでいっぱい、いっぱいになってしまって、他の人の祝福、他の人の救いについて考えたり、悩んだり、行動したりという喜びが持てなくなってしまう危険があります。


父親は、弟息子の帰りを今か、今かと待っていました。そして帰ってきたら大喜びでお祝いをしようと待っていました。でもお兄さんはそんな父親の気持ちが分かりません。弟の帰りを喜ぶことができません。父親の気持ちが分からないだけではなく、弟は弟でどんなにつらい思いを経験していたか?飢饉の中で飢え死にしそうになり、豚の世話までし、豚のエサまで食べたいと思うほど、みじめな思いをしていた弟、その弟の苦しみすらも理解しようとしていない、あるいはできなかった。救霊の喜び、救霊の重荷を私たちは失っていないでしょうか?


神は全ての人を愛して、全ての人が救われることを願っておられます。兄息子は、弟息子のことを父親に向かって「あなたの息子」と呼んでいます。日本語には出てきませんが、「これはあなたの息子」という言い方をしています。それに対して父親は兄に向って、弟息子のことを「お前の弟」だと言っています。私たちにも弟がいるということです。キリストが必要としている、救いを必要としている弟がいる。それは家族かも知れない、ご主人かもしれない。奥様かもしれない。子どもかも知れない。お父さんかも知れない、お母さんかも知れない。

お友達かもしれません、親戚かもしれません。救霊の喜びを私たちはもう一度与えていただきたいと思います。これから始まる1年、改めて私たちは救霊に励むお互いでありたいと思います。家族の救い、友人の救いのために祈る。救霊に労するお互いでありたいと思います。


ルカの福音書15章7節には「あなたがたに言います。それと同じように、1人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」10節にも「1人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」と。天に大きな喜びが湧き起こる。御使いたちに大きな喜びが与えられる。それが1人の人の救いです。私たちはこの喜びを、忘れずに、諦めずに、期待して求めるお互いでありたい。この喜びを共有できる私たちでありたいと、心から願います。


最後に31節をお読みして終わります。「父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。』」兄息子は父親に愛されているこどもであるのに、その愛を受け取ることができず、素直に受け入れることができずに、どこか、使用人のようにして生きていたのではないでしょうか?私たち救われた1人、1人が神のこどもとされていることを改めて思い出したいと思います。使用人でもない、奴隷でもない、神のこどもとされている。神の家族の一員とされている。私たち日本人はどうしても教会の中で、いい人になろうとしてしまいます。ちゃんとしよう、人に迷惑をかけないようにしよう。常識的であろうと、そのうち、人の目が気になって、人に何も言われないようにしよとして、どこか窮屈な堅苦しい、何かを我慢しているような、あるいは何かを演じているような・・・そんな信仰生活になっているということはありえると思います。そして、喜びがないということに慣れっこになってしまう。


 神様への愛無しにいろいろなことが出来てしまっているように感じてしまう。改めて神様が「わたしの愛する子よ」と私たち1人1人に優しく声をかけてくださっていることに、恵みと愛を見出したいと思います。その神様の愛を素直に受け止めることができるように、そして、神様の前に愛されている「自由なこども」として、ふるまうことができるように、生きていくことができるようにと心から願います。私たちの中に神様の愛を素直に受け取ることができずに跳ねのけてしまうような、あるいは、神様のみことばを素直に受け取ることができずに跳ねのけてしまうような、堅くなってしまう部分があるとしたな

ならば、それを今日、神様の前に差し出して砕いていただいて、柔らかな、素直な心を与えていただきたいと思います。神様への初めの愛に返らせていただきたい、そして喜びを私たちの心にもう一度与えられていきたいと思います。


*1 ルカの福音書 15章25-32節

15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。

15:26 それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、

15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』

15:28 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。

15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。

15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

15:31 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。

15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

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