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9月23日 「これはわたしの愛する子。  わたしはこれを喜ぶ。」

「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」

 イエス様は大工でしたが、その働きを終えて、30歳で公生涯をスタートさせます。イエス様はいつ頃十字架を意識されたのか聖書には記されていません。公生涯のスタートにバプテスマのヨハネから洗礼を受けられます。イエス様は罪は犯されませんでしたが、なぜ、洗礼を受ける必要があったのでしょうか。

 イエス様の洗礼は『人と同じ位置に立たれる』という意味があります。神の子という権威を捨てられて、罪人の側に立ってくださいました。その姿はイザヤ書53章に記されています。人が顔をそむけるほど醜い姿です。そして、十字架上では父なる神様に見捨てられます。けれども、イエス様は積極的に、罪人の側に立って下さいました。その証として、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。そして、父なる神様は『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。』とおっしゃいました。また、聖霊が鳩のようにイエス様のところに降って来られました。その姿は感動そのものです。

 しかし、私たちにとって、洗礼の意味はイエス様とは違います。罪が十字架によって赦され、洗礼をもって教会に属することを宣言します。イエス様と一体化されて上田教員となったことを宣言します。

しかし、洗礼を受けることが救いではありません。救いは、個人的にイエス様の十字架の前に罪を告白すること、そして、十字架は自分の身代わりの罪の代償であることを信じることです。それが救いです。洗礼は罪赦されたことを、教会で宣言し、教会員となることです。イエス様と共に天国へ歩む旅のスタートです。祝福と恵みがたくさんあります。しかし、問題・課題がなくなるわけではありません。けれども、イエス様と共に問題・課題を超えていく恵みが与えられます。今

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