top of page

素晴しいメシア


2022年11月27日 メッセージ要約

イザヤ書9章1~7節 *1

今年も今日からアドベント、待降節が始まりイエス・キリストのご降誕である、クリスマスが近づいてきました。もし、神であられるキリストが人となってこの世に来てくださらなければ、十字架も復活も聖霊降臨もなく、また再臨の希望もありませんでした。もしそうであったら、人類は、その一人である私たちお互いも救いも希望もなく、なお暗黒の中にあり、迷いと永遠の滅びの中にあったはずです。しかし、イエス・キリストが人としてご降誕くださったことによって、人類は、そしてお互い一人ひとりは救われ、人生に解決が与えられ、混迷する時代の中にあっても希望もって歩む者とされたのです。ですから、この年もさらに内なるところを準備し心からの感謝と喜びをもってキリストのご降誕、クリスマスをお迎えしたいと思います。


そこで、この朝、イエス・キリストがお生まれになる750年も以前に預言されたイザヤ書9章6節から「素晴らしいメシア」と題してお話してまいります。「メシア」というのは「救い主」ということで、「メサイア」とも言われています。


第一 不思議な助言者

「不思議な助言者」の「不思議」とは奇跡などに用いられていることばです。詩篇139篇14節に「私は感謝します。あなたは私に奇しいことをなさって恐ろしいほどです。」とあるように神がなさる奇跡のことを表すときに用いられています。そして、イザヤの預言ではやがておいでになる「みどりご」を「不思議」と呼んでいますが、この預言がイエス・キリストにおいて成就しました。私たち罪人とのかかわりにおいても、不思議です。驚くべき、不思議な方法で地上に来られ、不思議な方法でお生まれになりました。その人格、ことば、行い、十字架の贖いの死、復活といずれも不思議なことを通して、私たちの救いの道を開いてくださったのです。そして、天に昇られ、聖霊をお遣わしくださり、今は教会のかしらとして、大祭司として、父なる神と私たちの間を執り成してくださり、いつも聖霊によりともにいてくださり、心にいてくださるお方です。

しかも、このお方が「助言者」なのです。「カンセラー」のことです。日本語で言えば「相談相手」という意味です。今日カンセラーというのが非常に大切な時代です。今のような複雑な過酷な世界において間の心は傷つきやすく病いにすらなる時代ですから、精神的にも心理的にもそういう私たちの相談相手になってくれる人を必要としている時代です。「助言者」ということばの原語には「プランナー」という意味もあり、計画を立ててその計画を遂行していく者ということです。「助言者」とは、そういう意味で相談あいてになってその人を助け、その人の行くべき道を指し示す人のことです。私たちはクリスチャンですから、神を除外した人の助言だけでは解決できないことが多々あります。ですから、牧師に相談するとか、良き信仰の先輩に相談することが多いと思います。私も何人かの親しくさせていただいた先輩の牧師がいて相談し、良き相談相手になっていただいて44年、主のご奉仕を続けて来ることができました。しかし、イエスはそれにまさる「カンセラー」であり、「プランナー」です。それを私も生涯経験して来ました。なぜなら、イエスはすべての事を知っていてくださり(詩篇139:2)、「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されている」(コロサイ2:3)お方だからです。


第二 力ある神

イザヤは、6節で「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる」と言いました。これは明らかにやがておいでになるメシアの人間性を示しています。そしてこれと極めて対照的に7節では「力ある神」と呼び、メシアの神性を明確に預言しています。すなわち、やがて人として来られるメシアは、「人であると同時に神である」「神であると同時に人である」と預言したのです。事実、キリストは完全な人であり、完全な神であり、歴史上に二人といないお方です。「力ある神」とは口語訳では「大能の神」と訳されています。それは、天地を造り、支配しておられる創造者という意味で、超自然的な力の神ということです。パウロはローマ人への手紙9章5節で「キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン」と、キリストが神でいますことを明言しています。キリストは神で、罪のないお方として十字架にかかり、復活され贖いのみわざを成し遂げられました。そのキリストが力ある神として悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼされ、力ある神としてやがて永遠に続く神の国、新天新地を確立されるのです。


そのイエスが「世にあっては苦難があります。」(ヨハネ16:33)と言われました。私たちイエスさまの救いにあずかり神さまに愛されているクリスチャンでも御国に行くまでの旅路、この世に生きていくとき、苦難があり、忍耐が伴うものです。その苦難に対して、私たちは自力でそれに立ち向かうのではありません。

              

そうであるならば、私たちはいつも敗北と挫折の繰り返しを経験しなければならないでしょう。そうではなく「わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)と言われるお方、主イエス・キリストよって勝利することができるのです。ヨハネはその手紙の中で、次のように教えています。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ5:5)。なぜイエスを神の子と信じる者は世に勝つことができるのか。それは、イエス・キリストが「力ある神」として、あらゆる領域で圧倒的な勝利を得られたからです。このお方を信じ、いつもいてくださることを確信して行く時、勇気と勝利ある生活を送ることができます。


第三 永遠の父

「永遠の父」というのは英語で「エターナル・ファ―ザー」と訳されています。しかし、へブル語ではそういう意味のことば「オーラム」が使われていないのです。ここでは「エード」ということばが使われていて、「時々刻々」という意味なのです。イングリッシュ・バイブルでは「いつでものお父さん」という表現になっています。ですから、永遠においでになる、時々刻々、いつでもという意味です。いつでもどこでも、どういうときでも、どういう問題があるときでも、このお方を信頼して来る者に対して父でおいでになるのです。


つまり、イエスさまは永遠においでになる、時々刻々、いつでもどこでもいてくださる神です。先程までは時々刻々の父であったけれども状況が変わったので、今は違うということではないのです。私たちがどのような問題の中に置かれても、人はとても一緒にいてくれるとは思えない状況に置かれても、イエスさまを信頼して来る者に対して父であられるのです。


私は58年前の23歳の10月に京都府立病院に一ヶ月入院したことがありました。その当時は家族も一緒に病院で寝泊まりして看護が許されている時代でした。母が入院中ずっと世話してくれましたが特に手術後の一週間は昼夜付ききりでした。真夜中に目をさますとたいてい起きていたのに驚きました。いつ寝ていたのだろうかと思いましたが、ときには疲れていて声をかけて起こさなければならないこともありました。牧師になってからもよく助けに来てくれて、母にはとても感謝しています。


しかし、詩篇121篇4節には「見よ イスラエルを守る方は まどろむこともなく 眠ることもない」と歌われています。主は「うとうと」とされることなく「時々刻々」どんな状況でも変わることなく誰よりも近くにいてくださるお方なのです。

私は何度もお話ししてきたことがあるのですが、聖書全体のメッセージを要約しますと「恐れるな。一緒にいる。愛している。」なのです。混迷を深め、不安と恐れが覆う時代ですが、この永遠の主を見上げ、信頼して歩ませていただきましょう。詩篇23篇6節にみことばの約束があります。「まことに 私のいのちの日のかぎり いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。私はいつまでも 主の家に住まいます。」


第四 平和の君

「平和」という言葉は、ヘブル語では有名な「シャローム」です。それはいろいろな言い方がされますが、公の意味では「平和」と言いますが、個人的には「平安」「安心」ということです。イエスさまはヨハネの福音書14章27節でこう言っておられます。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしは平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」


ここでキリストは、この世のどんなもの、あるいはどんな人も与えることのできない本当の平安をあなたがたに与えると言われました。私はイエス・キリストによって救われて平安を得ることができましが、具体的に三種類の平安を与えてくださいました。実はそれは私だけでなく、キリストを信じるすべての人に同じように与えてくださる平安です。


それは、第一に罪を赦していただくことからくる平安です。第二は、日々の生活中のいろいろな心配事や思い煩いを神にゆだねることからくる安心です。第三は、死の恐れから解放される、死に対する安心です。

末期ガンを宣告され、長くても6ヶ月の生命と言われた兄弟がおられました。手術を拒否し全く神の御手にゆだね、1年以上も自宅で療養され最後の3日間だけを、ホスピスでお世話になり、受容して天国に旅立たれました。召天される40日前まで、毎週日曜日に教会の礼拝に出席し、それを唯一の楽しみとされました。健康な人たちがどれほど励まされたかわかりません。「単身赴任で先に天国に行くから、あなたはゆっくり来なさい。」と、愛する奥様に申し残されました。定年退職後1年半、人間的にはとても惜しいと思われることでしたが、栄光に輝く最後でした。兵庫県警一番の英語の達者な通訳官の兄弟でした。

               

今年もクリスマスを迎えようとしています。一人の姉妹が神様を信じていない世界でやっているように、きらびやかに教会内を飾りつけ、「楽しい楽しいクリスマス会をお祝いしましょう!」と思っていました。そのような思いのとき、牧師は、「御心に適うクリスマスをお祝いしましょう。」と言われたのです。そのことばは心に深くささりました。そのような中で、ある集会で、自分のクリスマスを迎える心のあり方は間違っているのだと悔い改めさせられました。「クリスマスの迎え方」を悔い改めたのは生まれて初めてだったそうです。その結果、「母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。」(マタイ2:11)のみことばが与えられ、御子主イエスさまに、ひれ伏して拝まずにはいられないクリスマスとなりました。


コロナ禍にあり、日本も世界も混迷の度を深め、不安と恐れと道徳低下が覆っている時代です。そのような状況の中で不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君として「イエス・キリストが、世の救い主として来られた。」のです。頭でわかっているクリスマスではなく心にお迎えし、ひれ伏して拝むクリスマスをお迎えしましょう。そして、イエス・キリストだけが与えてくださるクリスマスの恵みに生きる者となりましょう。


*1 イザヤ書 9章1~7節

9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。

9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。

9:4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。

9:5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。

9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

最新記事
bottom of page