私たちは神のこども

2022年11月13日 メッセージ要約
ローマ人への手紙8章12~25節 *1
先週は幸いな洗礼式が持たれました。ヨハネ3章16節より、イエス様を信じると「永遠のいのち」が与えられることをお話ししました。いのちが与えられていなければ、私たちは「イエス様」と呼ぶことも祈ることもできません。しかし、永遠のいのちが与えられているならば、イエス様と呼ぶことができ、讃美を歌い、試練の中にあっても神様の導きを信じて希望を持つことができます。
十字架の贖いを信じることは、永遠のいのちが与えられるだけではありません。「神のこども」とされます。そのことがローマ書8章に記されています。
当時のローマ文化では養子になった人は元の家族の権利を失い、新しい家族で嫡出子のすべての権利を得ました。同様に、クリスチャンになると、神の家族のこどもとして、すべての特権と責任が与えられます。ガラテヤ人への手紙4章5~7節をお読みしましょう。
私たちは、神の家族に迎えられたお一人、お一人であり、教会は神の家族としての特権を持っている人々の集まりです。「わたしには受け取る遺産がありません。」という方もおられるかもしれません。世的に考えればそうかもしれません。しかし、聖書的に見るならば、私たちは皆、莫大な遺産を受け継いでいます。
では、具体的に何を受け継いでいるでしょうか?15節に記されています。「御霊様」です。父なる神様、子なるイエス・キリスト、そして、私たちの助け主「聖霊様」は三位一体の神です。聖霊様をいただいていることは、父なる神様、イエス様もいただいていることになります。さらに、「アバ、父よ」とあります。この「アバ」とは乳幼児が最初に覚えることばの一つだそうです。乳幼児は「ぱ、ぱ」とか「パー」親しみをこめて「お父さん」と呼びます。
つまり、「アバ、父」とは私たちが乳幼児になって父親を呼ぶように、神様を「アバ、父よ」と呼びます。これは、聖霊様によらなければ、呼ぶことは出来ません。さらに、聖霊様は私たちに祈りの霊を与え、苦しい時、悲しい時にみことばをもって私たちを慰め、希望を与えてくださり、何よりも神様が見るように私たちにすべてのことを見させてくださいます。
さらに何を具体的に受け継ぐか?の二つ目は17節にあるように
「キリストとの共同相続人」です。共同相続人とは、 相続が発生したときに共同で相続人となる複数の人 です。 配偶者と子どもが相続人になったり、数人の子ども達が相続人となったりします。 そのようなとき「一緒に相続人になった人」が共同相続人です。
キリストとの共同相続人です。これは、考えられないほどの恵みです。
そして、3つ目は「苦難」です。ただの苦難ではなく、キリストと、栄光をともに受けるために苦難をも共にしているなら・・です。
イエス様と行動を共にする時「苦難」という代価が要ります。イエス様を信じて100%ハッピーエンドになると思っている人は少ないと思います。クリスチャンになったとたんに、私は、家族や友人とは違う人種になったような不安を覚えました。ある時は、何となく、仲間外れにされたり、「クリスチャンのくせに・・」なんて言われることもしばしばです。でも、「苦難」の中に置かれても、前向きであるならまだ、救われます。しかし、時として「信仰を失う」ことがあります。あるいは、神様や人、或いは教会が信じられないと思う時が必ずあります。
トマスというイエス様の弟子がいます。復活したイエス様と対面した弟子たちが大喜びをしている中、トマスは「私は信じない」と言いました。自分だけが、その場所にいなかったからです。愛するイエス様が十字架に掛けられて、息を引き取った。しかし、復活した、トマスは会いたくて、会いたくて仕方がなかったでしょう。ところが、自分だけがイエス様に会えなかったショックは大きかったと思います。しかし、やがて、イエス様が現れてトマスに語ります。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。イエス様は、トマスの不信仰が不愉快で、ぶっきらぼうな冷たい口調で、このことばをおっしゃったでしょうか?
原語に近い訳でこの部分を読むと、「信じない、不信仰にならないで、今の信仰をしっかりもって信じ続けなさい。」となります。トマスに対するイエス様のお応えは「そんな、不信仰でどうするんだ。」とおっしゃったのではなく、「今、あなたが持っている、その小さな信仰を守り続けなさい。それで良い。」とおっしゃっておられます。
苦難にはいろいろな種類があります。一番、厳しい試練は神様を信じることが難しい、或いは、神様を近くに感じない「苦難」です。その時もイエス様が私たちに寄り添ってくださり、必ず、そこを脱出させてくださるとの「信仰」を持ち続けましょう。○○さんのようにできなくて十分です。あるいは、自分の弱さに嘆いていてもいいです。イエス様を信じ続けましょう。
私たちはみな、神の子どもです。神様が導いて下さいます。
神様は決して、私たちを捨てません。むしろ、私たちが神様をわすれことがあっても、神様は私たちの傍を離れないお方です。
私たちは神の子どもです。
*1 ローマ人への手紙8章12~25節
8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。
8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
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