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神の約束を信じて


2023年1月8日 メッセージ要約

ヨシュア記1章1~9節 *1

ヤコブの家族70名がエジプトに移住しておおよそ400年後、イスラエルの民はエジプトで奴隷として塗炭の苦しみの中にありました。そのイスラエルの民を神はモーセを指導者に立てて約束のカナンの地に導こうとされました。紅海を渡り荒野の旅を続け40年かけてようやく約束の地カナンの東側を流れるヨルダン川に到着しました。そのとき、モーセは死に神がその後継者としてヌンの子ヨシュアを立てられました。それは神がモーセに約束しておられたことを、ヨシュアを通して実現するためでした。

そのことを通して新約のイスラエルの民である私たちが未知のこの一年をどのように歩めばいいのかを「神の約束を信じて」と題して今日の聖書の箇所から学びます。


第一 神の約束を信じる

ヨシュアは、先の指導者モーセの働きを引き継いでいくことになりました。ところがヨシュアはあまりにも偉大であったモーセの後を自分が責任を果たしていけるだろうかという恐れと不安と孤独を覚えました。そのとき、神はヨシュアに対して「あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。」(4)と約束されました。ヨシュアの働きはすべての民を率いてヨルダンを渡り、神がイスラエルの民に与えようとしておられる約束の地に向けて進み占領することでした。

神は、このときヨシュアを通してイスラエル民に向かって、ヨルダンの向こうに広がる約束の地を地中海に至るまであなたがたに与える、とおっしゃったのです。その地は乳と密の流れる豊かな地でした。

そのとき、イスラエルの人々が、棚からぼたもちのような思いになって、「神さま、ありがとうございます。それじゃ、いつか、私たちのものにしてくださるのですね」と言ってただ待っていたのでは、それは彼らのものにならなかったでしょう。なぜなら、神は「わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく」(3)と言われたからです。

つまり、約束の地を得るために自分に信頼しないで神に信頼して進みなさい。そうすれば神の約束の地を得ることができると言われたのです。本物の信仰とは自分に信頼するのではなく神に絶対信頼することです。


私たちは、神さまの約束だけを信頼して行けば、神さまは決して間違ったことはなさらないという信仰の原則は分かっています。けれども原則だけのクリスチャン・ライフでは、ほんとうのクリスチャン・ライフではないのです。具体的な生活の中で、約束を経験することが大切です。そのため、神の約束を信じて自分の足で一歩踏み込むこと、すなわち従うことです。そのとき、必ず恵みを受け、祝福を受けます。


2011年3月11日(金)の東日本大震災のとき、私たちの教会員のある兄弟姉妹の家は半壊する被災に遭われました。その兄弟姉妹の一人娘さんの姉妹は中学校の音楽の先生をしておられました。ピリピ2章13節のみことばが与えられ献身に導かれ、そのため数年お金をためて、その4月から東京の神学校に入学する予定でした。ところがお父さんはご病気で年金での質素な生活しておられました。お母さんの姉妹が妻に「このような状況なので献身をとどめてほしい」と懇願されました。妻は祈りの中で示され、「みことばが与えられていて献身は神さまの導きですから一切を神にお委ねして送り出してあげることです。神さまは経済的なことを含めて責任をもってくださいます」と勧めて予定通り神学校に入学されました。先週、お母さんの姉妹から「松本の教会でご奉仕させていただいて8年になります。長野は遠く一人生活が13年になりますが、良い距離感だと今は私は思うようになりました。感謝!」とお手紙をくださいました。経済的必要も満たされ霊的カナンの恵みを経験されているのです。


私たちが神の約束の恵みを経験する秘訣は、私たちが神の約束を信じ、自分の足で踏み出すことです。すなわち、神への絶対信頼の信仰によって進むことです。そのとき神の御名のためにも信仰によって従った者にも恵みで満ち足らせてくださいます。

                

第二 共にいてくださる神

神はヨシュアに「カナンの地を与えているから足の裏で踏んで前に進みなさい」と命じられました。カナンの地というのは、乳と密の流れる約束の国です。しかし、カナンの国はかならずしも平坦な道のりではありません。確かに行く所には平坦な肥沃な地があったのですが、山があり、谷があり、川があり、強固な城壁があり、先に住んでいた人々と戦わなければならないときもありました。しかし、そこを行くイスラエルの民に対して、9節前半で神は「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない」と励まされました。(9a)。そのように励まされたからと言って恐れや思い煩いから解放されて、強く、雄々しくなれるものでしょうか。とても無理なことです。ところが9節後半で神は「あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」と共にいると保証してくださったのです。


私たちの人生の歩みにおいて愛する主が共にいてくださることほど幸いなことはありません。私たちは昨年の3月をもって引退しました。その後、自分の人生をよく振り返るときがあります。その中で特に母と一緒に過ごすときを持てたことはとても幸いでした。特に、牧師の働きに慣れるのに10年はかかりますが、その間私たちは岡谷に遣わされ、母は私の弟と京都に住んでいました。けれども1年の半分くらいは岡谷に来てくれて一緒に生活し「神さまのためにお役に立つことができてとても嬉しい」と言って助けてくれました。最初の年、信徒の兄弟姉妹から「冬は非常に寒いので、家で過ごし、春暖かくなって活動すればいいですよ」と温かくおっしゃってくださいました。しかし、神学校を卒業した最初の年で奉仕に慣れず、岡谷の寒さが分からず妻が肺炎になり教会で寝て療養しました。母が12月から半年位来てくれて助けてくれました。その他、聖会とか特別伝道集会とか、大きな行事のあるときは、二人子どもがいましたのでいつも来てくれ助け支えてくれました。母が一緒にいてくれた楽しい思い出がたくさんあります。しかし、母は30年前に天に召されてもう一緒にいてくれることがなくなりました。本当に寂しくなりました。


ところが私たちを救ってくださったイエス・キリストはインマルエルの主で「見よ。わたしは世の終りまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)といつも私たちと一緒にいてくださるお方です。その上「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがない。」(へブル13:8)お方です。しかも「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(へブル13:5)と言われるお方なのです。母よりも確かなお方で、いつまでもどこにでも変わらずいてくださるお方です。


皆さんがよくご存じのジョンン・ウエスレ―が死の直前にベットの周りにいる親しい人たちに「私の生涯で最も幸いだったことは、主がいつも共にいてくださったことである」と言いました。私も自らを振り返り「その通りアーメン」ですと心から言えます。

私たちは霊的な戦い、苦労、困難な中で、弱気になったり、恐れたり、おののいたりするものです。このような私たちを、強くし、雄々しくさせるものは何かというと、主御自身がともにいてくださるということ、一緒に行ってくださるという、神の臨在です。私たちはともにいてくださる神とともに時々刻々歩みたいと思います。


第三 みことばへの聴従

私たちを雄々しくし、強くし勇気をもって歩めるように神がともにいてくださるという事実、主のご臨在というのは神秘的なことではないのです。キリスト教というのはやっぱり宗教だな。「目をつむってじっとしていたら、神さまに会ったとか、悟りが来たとか言うのだな」と思う人もいますが、それは聖書の宗教ではないのです。

神がともにいてくださるというのは決して観念の世界のできごとではありません。つまり心の中でこういう形の神さまがいてくださると描くことではありません。主の臨在とうのは母が実際にいてくれたように、それよりも確かなもの、リアルなもの、現実的なものなのです。


それでは何によって確かめるかというとみことばです。ひとりの人の存在が、その人の言葉に代表されるように、神のことばに従って行くとき、生きておられる神と共に歩むということを現実に経験するのです。


7節に「律法のすべてを守って行う」とあります。「律法」とは神のみことばのことで、「守って行う」とは「みことばに従う」ということです。それは「あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。」8節で「このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜も口ずさめ。」と命じられています。「口ずさむ」とは黙想し「思い巡らす」という意味です。み言葉を思い巡らして心に貯えて、私たちの生活が心の中にあるみことばによって律されていくということです。そのとき「あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。」と約束されています。

         

妻が身ごもって翌年の3月20日が出産予定日でした。ところが7ヶ月目に入った12月31日に5分おきに陣痛が起こりました。直ぐに岡谷市民病院に入院し、陣痛を止める処置がなされました。けれども陣痛は止まらず、医師が「分娩室の用意をするように」との言葉が聞こえてきたとき妻はそれを聞きながら数日前に読んだみことばイザヤ書41章14節を思い巡らせました。「虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。」「そうだ。虫にひとしいヤコブを助けることのできるお方が人の命を支配しておられ、その命の主、その神の主権にお委ねしよう」と信じました。そして眠ってしまいました。その後に目を覚ましますと陣痛が止まったことを知りました。それからは絶対安静の薄氷を踏むような日々、いつ陣痛が起きて出産してもおかしくない中で守られ3月12日に月満ちて次男が生れたのです。そのとき、担当のお医者さんが「あなたの信じている神さまはすごい!薄氷を歩くような状態だったのに!」とおっしゃったのです。その日、私は詩篇23篇から礼拝説教をしていましたのでその1節の「主はわたしの牧者であってわたしには乏しいことがない」から牧彦と名付けました。このことを通してみことばに聴従することの祝福を学びました。


私たちは2023年を迎えて新しい未知の世界に向って歩み出しました。現実の世界はコロナ禍で日常生活は大きく変わりました。またロシアによるウクライナ侵攻で人間には想像もつかない想定外の出来事が起こり不安と恐れのただ中にあります。地球温暖化が進み大きな災害が頻発し、道徳はここまでと思われるほどに低下し、人は孤独で人間的な温かみのない不安と恐れの色濃く漂う時代に生きています。

そして、人は弱い者で、そのような状況、世界の中でどう生きたらよいのかと迷っています。しかし、私たちクリスチャンは礼拝を大切にし、個人的なデボーションをより密に持ちたいと思います。そして、一人ひとりに対してご計画の約束を持って導いてくださる神への信仰に立ち、いつもどこにでもともにいてくださる不変の神に信頼することです。そして神のみことばに聴従して進むことです。そうするならば、この揺れ動く時代にあっても確かで間違いのない悔いのない祝福された生涯を送ることができます。この朝、もう一度新たな年の初めにこの神を仰ぎ、信頼し、みことばに聞き従って聖霊によって新たに歩ませていただきましょう。



*1 ヨシュア記1章1~9節

1:1 さて、【主】のしもべモーセが死んで後、【主】はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。

1:2 「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。

1:3 あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。

1:4 あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。

1:5 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

1:6 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。

1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。

1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」


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