神の御前に心を注ぎだせ


2022年7月24日 メッセージ要約

「神の御前に心を注ぎだせ」

詩篇62篇1~12節 *1

私たちがもう終わってほしいと願っているコロナウイルスの感染が、終わるどころか、感染者数が過去最大の日があり第7波、BA.5の感染拡大のただなかにあります。それだけでなく、ウクライナの悲惨な本当に心痛む戦争、元首相の銃撃による殺害、その他、毎日心を痛める事件のない日はなく、闇は深まり不安と動揺を覚え、希望の見えない日々が続いています。そのような中で私たちクリスチャンがいただいた信仰にしっかり立って歩むために、祈りが大切であることを思わされています。


この詩篇62篇は、息子アブサロムの反逆により、追われて苦境の中にあって祈ったダビデの作ともいわれています。そこで、この詩篇から祈りを大切にして、神への揺るぎない信仰に立ち、この時代にクリスチャンとして生きることを教えられたいと思います。そこでこの朝は「神の御前に心を注ぎ出せ」と題して語らせていただきます。



第一 沈黙して神を待つ


1節に「私のたましいは黙って ただ神を待ち望む」とあります。この意味は言葉どおりに、困難な逆境の中でただ口を閉じて黙って、何もしないで神を待ち望むということではありません。それでは海に網をつけて、いつか魚がかかるだろうと待っている運命論者となんら変わらないことになってしまいます。


私は東北の郡山で15年間ご奉仕をさせていただきました。その教会の初代の牧師は坂本勝重先生という方でした。先生はあまりご丈夫な方ではありませんでした。しかし、祈りの人で教会員の兄弟姉妹が先生の家を訪問するといつもと言ってもよいほどよく祈っておられた祈りの人でした。先生はことばの人ではありませんでしたから礼拝の説教の中でなかなか語ることばが出てこないことが何度もあったそうです。そのようなとき、2分も3分も祈られてことばが出て来るのです。ところが、信徒の方たちもその先生の説教のために、臨在の主の御前で沈黙してただ神を待つということでしたが、その沈黙の中で魂がいよいよ主に近づけられるという経験をしたということです。


ところが、祈っている最中に別のことを考えてしまい、祈りに集中して、ただ神を仰いで待ち望むことができないというようなことを聞くことがあります。これは私もかつてそうでしたが、たいていの人が経験することではないかと思います。このためには、祈りの時間や場所を考慮し、聖別して静まって心を神に向けることが大切です。


ダビデの祈りの時間帯は興味をひきます。詩篇5篇3節でダビデは「主よ 朝明けに 私の声を聞いてください。朝明けに 私はあなたの御前に備えをし 仰ぎ望みます」と歌っています。ダビデは必要に応じていつでも祈ったでしょう。けれども特に彼は朝の時間帯を貴重な祈りのときとして、聖別して御前に出ていたことがうかがえます。


イエスさまもしばしば朝の時間帯に天の父の前に出て祈りに心を注がれたのです。弟子たちは最初、イエスさまの権威あふれる素晴らしい説教に感激していました。また、悪霊を追い出したり病気を癒したりする素晴らしみわざに目を見張ったり、見えるものに心を奪われたと思います。しかし、そうして一緒に旅を続けていたある日、ふと気づくのです。きのうあれほど夜遅くまで癒しのみわざをなし、説教して一緒に寝たはずのイエスさまが、早朝、もう寝床にはおられないのです。「いったいどこへ?」しばらくして分かりました。イエスさまは人のいない場所に行き、静まってずっと祈っておられたのです。そのイエスさまの姿についてマルコの福音書は「さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)と記しています。そして、ずっと一緒にいるあいだに、イエスさまの祈られる姿、涙ながらに主のみこころを求めて祈られる姿に気が付いたのです。そして、実は、イエスさまの大きなみわざはこの祈りによって支えられていることを知ったのです。


ダビデもイエスさまもなぜ朝だったのでしょうか。それはさまざまなスケジュールが始まってしまう前に、集中した心の状態でまず主の前に出て、祈るということが大切だということを、知っておられたからです。その日のことを考え始め、世の様々な事柄に心を奪われる前に、祈りの時間を聖別されたのです。


このような祈りの時間を聖別するためには霊的戦いがあります。サタンはいろいろな、もっともらしい言い訳をもって、祈りの時を奪おうとします。ですから、朝の祈りの時間を確保するためにはやはり前日の夜から始めなければなりません。夜は少し早く寝て、朝の時間を確保することです。祈りのためには祈りの時間を確保する聖なる努力と規則正しい生活をすることが大切です。

第二 神から来る望み


ところで、1節で「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」(1)と言っていますが、どうして「黙って、ただ神を待ち望む」こことができたのか、それは神への信頼のためでした。「信頼」と「沈黙」は、表裏一体のもので、信頼のないところには沈黙は生まれないからです。どこでも見かける情景ですが、母親に必要を満たされた幼子は、母親への信頼のゆえに、周囲の状況に左右されて恐れることなく沈黙して安らかに眠ります。そのようにダビデは神さまを信頼して、アブサロムの反逆とその苦境の中で黙って、ただ神を待ち望んだのです。


わが子アブサロムに反逆され逃げなければならなかったダビデです。さらに、アブサロムに味方していた人々からは死の恐れすら感じるような誹謗中傷を受けました。それが3節、4節に記されています。ところが、このような危機的な状況で5節では「私のたましいよ 黙って ただ神を待ち望め」(5)と「待ち望む」のではなく「待ち望め」と命令のように言っています。それは、神に信頼して黙っているだけでなく、自分に信頼しないで黙って神に信頼して待ち望むように勧めているのです。


この神への信頼の確信には理由が二つあると思います。一つは2節の「神こそわが岩」という神が不動なるお方であるという理由です。詩篇121篇1節、2節で「私は山に向かって目を上げる。私の助けは どこから来るのか。私の助けは主から来る。天地を造られたお方から」と歌われています。この詩篇は神の助けは自然界を代表し、地球が提供できる最高のものである山々にあるのではなく、その天地を造られた神にあると言っているのです。現代人が自分たちの問題解決のためにあらゆるこの世的な方策、たとえば政治、教育、経済(富)、社会科学、テクノロジー(科学技術)、精神分析等にあるのではない。天地を造られた創造主なる神にある。移りゆく、変わりやすい世の中にあって、神こそ永遠に変わらない、「岩」のように揺るがない唯一のお方であり、この神に信頼するほど確かなことはないと教えています。


もう一つのことは2節の「神こそ…わが救い」という揺るがない経験です。救われ生まれ変わり新生の経験の後、自分が体験してきたことです。自分の力で何とかしようとしていたときはだめだった。しかし、黙って100パーセント信頼して神を待ち望んだとき、この世のものではない、聖なる天的な助けを与えられたとの経験です。それは時宜にかなった素晴らしい助けでした。ですから、神こそ本当の希望なのです。私たちは祈りのとき、この神さまに幼子のように単純に目を向け、望みをもって祈ることです。


このとき、ダビデはどんなに敵が自分の命を狙っても、王位から突き落とそうとしても、2節で「私は決して揺るがされない」、6節で、「私は揺るがされることがない」(6)と2度言っています。ダビデは心が大きく揺るがされ、不安と恐れの虜となってしまうような状況の中で、2節、6節で「神こそ わが岩、わが救い わがやぐら」なるお方であると確信して歌いました。


自分の力で生きる人生はたかが知れています。ところが、祈る人の人生は違います。ダビデは、息子アブサロムの反逆により、追われて、恐れと希望の見えないそのような中で自分が祈りによって確かに神によって助け支えられていることを経験したのです。いかなることがあっても神に信頼していれば大丈夫との信仰に立てたのです。


第三 あなたがたの心を御前に注ぎだせ


ダビデはそのような体験を踏まえて、「民よ どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を 神の御前に注ぎだせ。神はわれらの避け所である」(8)と勧めています。これは一見「黙って ただ神を待ち望む」という「沈黙」と反対のことを勧めてしているように思えます。しかし、それは心の内側にある様々なことを全部神に正直に、打ち明けなさいということです。


よく救われて間もない方が、信仰歴の長いクリスチャンが流暢に祈るのを聞いて、「私はあのように祈れない」と恐れたじろぐことがあります。そのために、「私は祈りがうまくできない。ですから祈りが聞かれないのではないか」と思いながら信仰生活を続ける人がいます。それはとても残念なことです。

どんな赤ちゃんでも最初からお母さんとおしゃべりできる赤ちゃんはいません。けれどもやがて言葉をしゃべり、「ママ」や「マンマ」など親に話しかけることを覚え、何でも思ったことを自由に自分の言葉で表現して伝えることができるようになります。ですから、現在の祈りが仮に流暢でないし十分でないと感じても、神さまは聞いてくださっています。それよりも大切なことは神との交わりのなかで、様々なことを全部、ありのまま正直に、打ち明けることです。祈るのをやめないで祈りの生活を続けることです。

というのも、あの山上の説教でイエスさまは「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)と群衆に向かって教えられました。  

そのイエスさまがルカの福音書で「あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか」(ルカ11:11)と言われたように、とにかく祈り求めるなら、祈りは聞かれると祈るように勧めておられるからです。

 

祈りは他人に聞かせるものではなく、天の父なる神に親しく話す自然の会話です。ですからどんなことでも心にあることをありのままに神に告げればいいのです。子どもが、ごくつまらないことでも親に一生懸命話すように、心の中にある小さいことでも、一つ一つ神に申し上げればよいのです。うれしいこと、悲しいことも、また誰にも言えないようなことでも、神にだけは話すことができます。失敗も心配も、ありのまま話せばよいのです。日常の必要、家族、健康、仕事、友人、兄弟姉妹、教会、世界のこと、あらゆる問題を祈ることができるのです。  

 

全てのクリスチャンは、自分のもつ全ての重荷を、祈りを聞かれる、聞くと約束しておられる神のもとにもっていく特権が与えられているのです。私たちはどんな問題も神さまに解決のできないものはない。人にはできないけれども神には何でもできるという信仰に立って祈ることです。それが心を注ぎ出して祈ることです。

 

私たちは、生きておられる神さま、聞くと約束してくださっている神さまに向って心を注ぎだして祈りたいと思います。闇は深まり希望の見えない終りの時代です。しかし、この時代に流されることなく、染まることなく、不安と動揺に左右されることなく、神さまへの揺るぎない信仰と使命(神のみこころと宣教と愛)に生きたいと思います。その秘訣は「神の御前に心を注ぎ出して祈ること」です。



*1 詩篇62篇1~12節

62:1 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。

62:2 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。

62:3 おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁か、ぐらつく石垣のように。

62:4 まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。 セラ

62:5 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。

62:6 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。

62:7 私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。

62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。 セラ

62:9 まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。

62:10 圧制にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富がふえても、それに心を留めるな。

62:11 神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。

62:12 主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。


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