祝福の日向と影
2022年5月22日 メッセージ要約
*創世記21章1~21節 *1
主は約束とおりにイサクを誕生させました。(1節)
サラは笑います。(6節)このサラの笑いは18章の5節とは全く違う笑いです。18章の笑いは、冷たい信仰の笑いでした。「そんなことはありえない。」と。しかし、21章は信仰の喜びに満ちた笑いでした。
これですべてが解決したと思った矢先にある事件が起こります。(9節)イシュマエルが、イサクをからかっています。それを見た、サラが激怒します。アブラハムは非常に悩みましたが、ここでも神様がアブラハムを助けます。(12節)イシュマエルに対する神様の配慮に満ちた素晴らしい約束です。しかし、人間的には悲しい結末となりましたアブラハムはハガルとイシュマエルを家から追い出します。
イサクの誕生は神様の祝福です。しかし、ハガルとイシュマエルにとっては大変つらい出来事になりました。神様の祝福の後ろには必ず影があることを私たちは念頭に置く必要があります。イシュマエルはここまで、アブラハムの後継者として多くの人に大切に扱われてきました。しかし、ある日、突然、その状態は一変します。さらに、予測不能の屈辱を受けたとの感情がハガルとイシュマエルに沸き起こります。
さらに、イシュマエルとハガルの一番の苦しみは、この出来事が「神様のみこころ」と深くかかわっていたからです。紛れもなくイサクの誕生は神のみこころでした。
ジョン・ストットは、「苦しみの本当の棘は不幸な状況そのものでも、痛みでも、また苦しみの不条理でもない。それは神から見捨てられたという意識である。私たちは痛みなら耐えられるが、神から無視されることには耐えられない。」と述べています。
イエス様が十字架上で父なる神に叫びました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と。イエス様が「どうして」とおっしゃる経験をされたということは、私たちも「どうして・・」という、辛い道を通過することを意味しています。
ある神学校での話です。ある生徒が昔、受けた傷や不公平な扱いのために神に対して怒っていました。教師が問います。「あなたのために何を祈りましょうか?」と。生徒は激しい言葉で言います。「私は神が嫌いです。先生が信じている神が憎いです。」と。教師は言います。「そのことを今、十字架に持って行きましょう。神が嫌いだと言うあなたの告白を、今日、あなたのささげもの、讃美のささげものにしましょう。」と。生徒は教師のことばに戸惑いましたが、うなずきました。生徒はこれまでの人生で味わった苦しみ、不公平のために神に対してひどく怒っていたことを認めました。それから彼女は自分の怒りを十字架の下に置きました。二人はイエス様に願い求めました。生徒の怒りがもはや、神との関係性の妨げにならないように、さらに、神様がその怒りを彼女から取り去って、神様が彼女の代わりにその苦しみを担ってくださるようにと祈りました。最後に二人は神様の愛がまったく新しく生徒の心に満ちあふれるようにと祈りました。
二人の祈りは決してドラマティックなものでも、感情的なものでもありませんでした。しかし、生徒はその日、信仰の大切な一歩を踏み出しました。まず、心の中の神様に対する怒りを認めることによって、生徒はその怒りを手放すことを始めたのです。そして、神様が生徒の怒りをイエス様が十字架に掛かられたその姿で担ってくださったことを知りました。彼女の怒りが静まるにつれて、生徒の心には神の愛が満ちて行きました。
これまでの人生で受けて来た痛みや失望のために、イエス様に対して怒りを感じているかどうか、聖霊様に示していただきましょう。聖霊様にその怒りを解決してくださる道を示していただきましょう。
神様は、ハガルの怒り、悲しみを癒してくださるお方です。17節
「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。・・」と声をかけられます。自分たちの存在は神のみこころではないのだ、との深い悲しみに対して神様は声をかけられます。「そうではない・・決してそうではない・・。」と。それが「恐れてはならない」との神様のおことばです。ここでも、神様は直接、ハガルには語ってはおられませんが、アブラハムには語っておられました。「‥あの女奴隷の子も、わたしは一つの国民とする。彼も、あなたの子孫なのだから。」と。
ハガルは思っていたことでしょう。私たち親子は神のみこころではないと。しかし、実は神様のもう一つの祝福の基であることが分かります。13節。神様の深い憐れみです。
もし、私たちが祝福の影となる時、あるいは、現在の辛い状況は神様のみこころから来るのだと感じるとき、ハガルに対して語られた神様のみこえを聴きたいと思います。
「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。・・」
もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。
ペテロの手紙第Ⅰ 2章19節
*1 創世記21章1~21節
21:1 【主】は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに【主】はサラになさった。
21:2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
21:3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。
21:4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。
21:5 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。
21:6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」
21:7 また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」
21:8 その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。
21:9 そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。
21:10 それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」
21:11 このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。
21:12 すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。
21:13 しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」
21:14 翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。
21:15 皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の灌木の下に投げ出し、
21:16 自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。
21:17 神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。
21:18 行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」
21:19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。
21:20 神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。
21:21 こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。
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