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永遠の天国を目指して


2024年8月18日メッセージ *1ルカの福音書16:19~31

日本の暦では毎年8月13日から16日までは「お盆」で先祖を祀る一連の行事が行われます。お盆とは「甚だ苦しい」の意味で、始まりには大きく二つの意味があるようです。一つは自分のご先祖が餓鬼道に落ちて食物を食べることもできず、やせ衰えている。そのご先祖に食物を供えて供養し、その冥福を祈ったということす。もう一つは、お盆の日には地獄の釜の蓋が開いて精霊がこの世に帰って来るというので、お盆の13日に迎え火をたいて精霊を迎えるということです。

そこで、日本ではお盆というこの時期に死後のことと関連した行事が行われることから改めてクリスチャンの死生観についてイエスさまが語られたたとえ話から「永遠の天国を目指して」と題して学んでまいります。


第一 ラザロと金持ちのこの世の生活

 19節に「ある金持がいた。彼は紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」とあります。ところがイエスさまは金持の名前をおしゃっていません。しかし、14節に「金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑った」とありますから、イエスさまは彼らを意識しながら語られたのです。

この金持は、当時最高のぜいたくのしるしである紫の衣や柔らかい亜麻布を着てぜいたくな暮らしをしていました。しかし、金持は特別に悪いことをしたとかこの世の法律を破るような不正直ことをしていたとは言われていません。また紫の衣や柔らかい亜麻布を着ることは罪ではなく、ごちそうを食べることが罪であるといことでもありません。ただこの人は金持ちでしたから毎日ぜいたくに遊び暮らしていたのです。一日や二日ではなく毎日です。

ところが20節、21節に「その金持ちの門前には、ラザロという、でき物だらけの貧しい人が寝ていた。彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。」とあります。ここにある「門前」とは非常にすばらしい建築をほどこした美しい建物だそうです。そういうすばらしい建物の前で、おできがいっぱいできた乞食のようなラザロが横たわっていたのです。それにもかかわらず金持はそんなことにはお構いなしで、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。


第二 ラザロと金持ちの死

 ラザロというの、「神はわが助け」という意味です。貧しいラザロの面倒をみてくれる人はいませんでしたが、ラザロは神さまを信じ、より頼む信仰に生きていました。一方の金持は、神さまのことなんか全然考えないで、ただ自分のことばかり考えて、お金は使い放題、毎日、贅沢三昧に暮らしていました。

しかし22節を見てください。「この貧しい人は死に」、「金持ちもまた、死んで葬られ」ました。お金がありますから、少しでも長生きできるように、医者にもかかり、あらゆる手を尽くしたと思います。しかし、やっぱり死を逃れることはできませんでした。ラザロと金持ちは地上の生活では雲泥の差がありましたがふたりとも同じように死にました。

私たちの周りにもお金がたくさんある人もいますし、あるいは実に貧しいみじめな生活をしている人もいます。けれども、そのような違いに関係なく、いつかだれでも例外なく死というものがやってくるのです。だれも死を逃れることができません。

若い人ではそうでないかもしれませんが、私のような高齢者になりますと、もちろんイエス・キリストの救いにあずかり死の解決は得ていますが、近親者の死や友人知人の死や様々な死の出来事を通して、自分も人生の終わりがくるのだと、厳かな思いになります。私たちはいつまでも地上に生きながらえるわけではありません。ところが、この世のことに目をくらまされ、とらえられていますと、いつまでも地上に生きるかのように思ってしまいます。まだまだ先々のことであると考えてしまうのです。この金持ちは、毎日ぜいたくに暮らしていて、死のことなどおそらく考えなかったのでしょう。死んだら先があるかないか考えることもなく、毎日遊び暮らしていました。

ところが、やがて、突然でしょうか、死がやってきました。ラザロについては「この貧しい人は死に」とだけ書いてあります。しかし金持ちは「死んで葬られた」と書いてあります。ですから、ラザロのお葬式はなかったのです。彼が死んでどうされたかわかりません。とにかく人知れず処分されたのでしょう。

ところが、金持ちは「死んで葬られた」とありますから盛大な葬式が行われたことは明白です。おそらく生前金持ちでしたから花輪が所せましと並べられ華々しい盛大な葬式だったと思います。大勢の人々が参列し、そして弔辞を述べる人も多くあったことでしょう。


第三 葬式がすんで死後のこと

 ラザロは食卓から落ちる物を食べて命をつなぎ、乞食のような生活をしていました(21)。けれども、彼は神さまを信じていましたから、死んだときに御使いが現れて、彼をアブラハムのふとことに連れて行きました(22)。アブラハムとは旧約の人で、信仰の父、神の友と言われた人です。ユダヤ人はその当時、そのアブラハムのところに行くということは、神さまを信じた正しい人々の死後に行く、慰め、喜び、真の安息の場所だと考えていました。いわゆるパラダイスです。そこにラザロは御使いに連れられて行きました。

一方、金持ちの死後はと言いますと、ラザロとは対照的なことが起こったのです。23節~24節に書かれています。金持ちは死んで、華やかで盛大な葬式が行われましたが、彼の魂は死後、ハデス・黄泉というところに行きました。黄泉というのはサタンの根拠地のようなところで、光のない暗黒の世界です。彼はその黄泉に行って苦しみました。そして、ラザロがアブラハムの懐にいて、慰めと喜び、真の安息の中に入れられているのを見ました。金持ちは炎の中でのどが乾いて非常に苦しく、「ラザロが指先を水で浸して私の舌を冷やすようにしてください。」と訴えました。しかし、アブラハムはこう言います。「私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えてくることもできない。」(26)。ラザロと金持ちは死後、地上の状態とは逆になってしまったのです。しかも金持ちのように死んでから後、一旦黄泉に入るとパラダイスとの間に大きな淵があってもはやどうすることもできないのです。死後は地上の生活によって決まるのです。セカンドチャンスはありません。

すると金持ちは諦めました。その後の金持ちとアブラハムの会話が27節から31節に記されています。27~29節をお読みします。「金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください』」。「しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』」つまり「聖書のことばに耳を傾けるべきである」ということです。さらに30~31節です。「金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう』」。すると「アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」かりに死人の中からだれかが生き返って「大変だよ、死んだ後に黄泉という所があり、さばきがあり、そこで永遠に苦しむことになる。だから悔い改めて神を信じなさい。」と勧めても、彼らは聞き入れはしない。それほど人間は不信仰で、人間の心は頑固で奇跡を見たからといって素直に単純に悔い改めるようなことはしません。

ですからイエスさまは奇跡的なことを救いの根拠になさいませんでした。救いの根拠はみことばです。「みことばを信じない人は、何が起こっても信じない。」とおっしゃっているのです。私たちがみことばを信じて救われ、きよめられ、日々みことばを信じて生きることは、大変すばらしい恵みです。私たちが生き生きとクリスチャンにふさわしい人生を歩むには、日々みことばによって生かされるという経験を重ねていくことです。ですから日々のデボーションは非常に大切です。ぜひこの習慣を身に着けたものです。


そこできょうのイエスさまのラザロと金持ちのたとえ話から、二つ大事なことを学びます。

第一 天国の希望に生きる

 私たちの生涯は、この世だけで終わらないということです。永遠の世界があるということ、天国があるということです。死んだらもうそれっきりだと言う人がかなりいます。「人間は死ねばもうそれっきり。」と言い、消えてなくなってしまうという考え方です。また、死後の世界だけは、死んで生き返った人がいないのだから、全く分からないという考え方の人は世に多いのではないでしょうか。しかし、聖書はそうは言っていません。イエスさまのお話で、貧しいラザロは死んで天国に行き、金持ちは死んで黄泉に行ったのです。ですから死んで終わるのではなく、永遠の世界、天国が現実にあるということです。 

そしてこの地上における不公平は天国、すなわち永遠の世界との関係において調整されます。つまり地上の矛盾は氷解し過不足も完全に満たされるのです。地上では悲しみや苦しみなど多くの矛盾を負って生きた人も報われます。ラザロもその一人です。

当時のユダヤ人は死後「アブラハムの懐」に行くと信じていました。しかし、イエスさまはこう言われました。ヨハネの福音書14章3節をお読みします。「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」そう言われたイエスさまが十字架にかかり三日目によみがえられたのはその保障です(Ⅰコリント15:3~6)。つまりイエス・キリストを信じて救われた者は、イエスさまが備えられた場所、イエスさまがおいでになる天国に迎えられイエスさまと永遠に住むことになります。

その場所についてヨハネの黙示録21章4節~5節を開いてください。「見よ、神の幕屋が人々と共にある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」と永遠の世界、天国のことが記されています。

以前、先輩の牧師から聞いたお話しです。かつて軽井沢で、宣教師が牛乳運搬車にひかれたことがありました。苦しい息の下から彼が、うろたえる牛乳配達の青年に言ったことばは、「牛乳がくさるといけないから早く行きたまえ。私は先に天国へ……」でした。作家の正宗白鳥は病床にあって、このことばを聞いて非常に感動を受けたそうです。内村鑑三から聖書を学び、途中キリスト教から離れましたがまじめな懐疑論者として生きて来た彼でした。けれども宣教師の最後のことばに不信仰を強く示されました。

そして彼は丁重に牧師を自宅に招き、謙遜にキリストを救い主として受け入れ、素直に自分の罪を告白しました。病床で洗礼を受けた彼は晴れ晴れと顔を輝かせながら言ったそうです。「私は幼子のように単純になりました。」その後、平安のうちに天に召されました。

やがて死を迎える私たちです。しかしイエスさまを信じる者は、永遠の天国の祝福を嗣(つ)ぐ、肉体を越えた、朽ちない希望に生きることができます。

高齢化社会となり、老後までのことに関心が集まりがちです。そのため私たちクリスチャンもその影響を受けて、死後にあるすばらしい天国の希望を目指す信仰が弱くなってしまっていないかどうかを省みる必要があります。この世に心を奪われてしまって、来世があることを知っているのですが、この世だけであるかのごとく生き、この世に左右されていないかということです。この世限りではない、来世があるのだということを毎日自覚して天国というゴールを目指して生きることがとても大切です。

私たちは救われて天国に行けことを心から感謝するとともに家族、妻も夫も親も子どもも孫も親族、知人、友人も共に天国に行けるように熱心に祈り、証ししていく者でありましょう。


第二 召された者にふさわしく生きる

 聖書はクリスチャンに召された者にふさわしく生きるように勧めています(エペソ4:1、Ⅱテサロニケ1:11)。ところがこの金持ちには、二つの大きな問題がありました。


一つは、快楽のために人生を費やしたこと

19節にあるように、金持ちはこの世にあってお金にだけに関心があり、その他のことには無関心でありました。イスラエルの一週間のカレンダーで、何が大切なこととされていたかというと、安息日です。安息日には休みなさい、あとの六日間はしっかり働きなさいということです。けれども金持ちは毎日が安息日でした。神さまのことなんか全然考えないで、高価な服を着て自分を喜ばせ、自分を楽しませるために、食べたいものを食べ、着たいものを着て、おごり楽しんでいました。

この金持ちは地上で多くの富を持っていましたが、彼は持てるものをすべて地上に残し、自分は何一つ持たないで死後黄泉の世界に行って、水一滴さえももらうことができなかったのです。それは目に見えない霊的世界において苦痛を刈り取った恐ろしい人の姿です。

しかし、ラザロは「神はわが助け」なる信仰に生きました。これは本当の財産、本当の持ち物でした。孤独な死でしたが天国に迎えられ、すぐ神さまのおいでになる近いところに招かれて、真の慰めと喜び、安息と報いを受けました。

人は死ぬ時は一円も持っていけません。金持ちはお金がすべてだと思っていました。しかし、お金は自分のためだけでなく、神さまから一時的にゆだねられた、預けてくださっているものです。ですからスチュワード(管理人)としてお金をどういうふうに使ったかということで、神さまに対してお互いに責任があります。お金は決して悪いものではありません。けれども、それをどういうふうに使うかが問題です。

祈って神さまのみこころに従って用いることです。それは天に宝を積むことになります。また神さまがお喜びになる良いことのため、たとえば今の時代、私たちの身近なところや世界には貧しい人々が非常に多くいます。その支援のためにお金を用いるならば、そのお金は実に尊いものです。私たちはささやかな支援をある宣教団にしています。そこで漫画聖書が印刷され、アフリカからヨーロッパに向かう難民の子どもたちに渡されて、救われる子どもたちも起こされています。マタイの福音書の6章19節、20節では「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。……自分のために、天に宝を蓄えなさい。」勧めています。私たちは神さまから一時的に預かったものとして天に宝を蓄える使い方をしたいと思います。


二つには、隣人に対して無関心であったこと

この金持は目の前にいる人に対して無関心で、慰めようとも助けようとしなかったのです。20節に「ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。」とあります。昼寝をしていたというような意味ではなく、立ち続けることが体力的に辛く横になっていたということです。そのラザロに近づいてやってくるのは犬一匹で、金持ちは全く無関心でした。

有名なイギリスの聖書学者である、W・バークレーは、彼は悪を行ったわけではないが、すべきことをしなかった、無関心がこの人の一番の悪であったと言っています。このたとえ話は、愛によって関心を持つことの大切さを教えるものであり、彼がそれをしなかったことが問題です。

現代は災害や戦争、病気や事故や犯罪、人間関係で傷ついている人たちが多くいます。恐ろしいほどの不法と堕落した時代です。法律の隙間を利用して人々を中傷誹謗する、詐欺をするなど言語に絶する悪が横行しています。このような時代にあって苦しみ、悩み、悲しみ、孤独の中で寂しく思っている人々が多くいます。クリスチャンにとってこれほど心痛む時代はありません。今ほど愛の助けを求めている時代はないでしょう。

イエスさまは終りの時代「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。」(マタイ24:12)と警告されました。私たちはクリスチャンとして、良きサマリア人の中に出て来るレビ人や祭司ではなく良きサマリア人のように生きたいと思います(ルカ10:30~37)。私たちは悩める人、苦しめる人、悲しんでいる人、寂しい人、迷っている人たちに対しては無関心にならないように、声をかけ、寄り添い、祈り励まし合っていくお互いでありたいと思います。

C・S・ルイスという人は、イギリスの中世・ルネサンス文学の天才ですが、こう言っています。「天国をめざして生きなさい。そうすれば、あなたは天国もこの世も得ます。この世だけで生きるなら、天国もこの世もともに失うでしょう。」と聖霊に励まされつつ永遠の天国の希望に堅く立ちつつ天に宝を蓄え、愛の実践をもって歩みましょう。


*1ルカの福音書16:19~31

16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

16:20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、

16:21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

16:22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。

16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

16:26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』

16:27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。

16:28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

16:29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』

16:30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』

16:31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

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