新しく生まれる

2022年11月6日 メッセージ要約
ヨハネの福音書3章1~8、16~21節 *1
「新しく生まれる」とはどのようなことであるのかをもう一度確認して、洗礼式を喜ぶと同時に、私たちがいただいた救いの恵みを確認いたしましょう。
ここに、律法の専門家で、パリサイ人のニコデモが夜、こっそりとイエス様を訪ねます。現在で言うならば、有名な牧師の一人と言えるかもしれません。ニコデモはイエス様に尋ねます。「あなたのその力は、神が共におられなければ出てきません。あなたはいったいどなたなのですか?」と。
ニコデモはイエス様が神であることを認識出来ていませんでした。
皆さんは教会に来られて、普通に讃美歌を歌い、祈りましょうと言えば、「イエス様・・・」と祈ることが出来ます。それは、イエス様が唯一の神であり、唯一の救い主であることが理解できている証拠です。
胎児がお母さんのお腹の中にいる時は、肺で呼吸することもできません。また、目で色を確認することが出来ません。また、声を出すこともできません。どうしてでしょうか?まだ、生まれていないからです。
それと同じように霊的に生まれていない人は、神様を認識できません。
「イエス様」と祈ることが出来ません。また、讃美することも、聖書を読むこともしません。それは、霊的に生まれていないからです。ですから、新しい方が教会に来て私たちが讃美を捧げ、祈っている姿を見るととても滑稽に思えます。
皆さんが「イエス様」と祈ることができるなら、それは霊的に生まれている証拠です。洗礼を受けている、受けていないは関係ありません。
洗礼を受けることが救われることではなくて、イエス様が私の神であり、私の罪のために十字架に掛かってくださった事を信じるなら、私たちは讃美をし、祈ることが出来ます。
イエス様は3節でそのことをおっしゃっています。「新しく生まれる」です。
6節には肉によって生まれるとあります。私たちの誕生日です。誕生日は全世界の人にあります。御霊によって生まれるとは、イエス様を信じて、私たちの霊的な部分にスイッチが入り、たちまち目が開かれたように聖書の世界が現実のものとして自分のものになります。
皆さんは救われているでしょうか?もし、まだお救いを経験されていない方は、イエス様と個人的なお祈りをしてください。罪の告白をして、イエス様が私の罪のために十字架に掛かってくださったことを、単純に受け入れてください。その時、霊的なスイッチが入ります。これは、クリスチャンになってからでも遅くはありません。ジョン・ウェスレーもそうでした。救いがはっきり分かったのは、宣教師としてアメリカに渡った後の出来事です。
次に何故、人は新しく霊的に生まれる必要があるのか?が16~21節に書かれています。「永遠のいのち」を持つためである、です。
「永遠のいのち」とは何でしょうか?それは、死んで後、天国に行けること、そしてやがて、イエス様を中心とした国で私たちが永遠に生きることであると記されています。(黙示録21章)
しかし、それだけではありません。「いのち」とは「生きている」ことを意味します。生きているので、食べたり、飲んだり、生きるために仕事をします。あるいは人間関係を築いて、家族を形成し、社会を形成していきます。また、一方で人は、どんな状況にあっても人は素晴らしい存在です。最近は一人、一人の個性を大切にします。性差を超えて、或いは障害を越えて人は皆尊い存在で愛されるべき存在だと主張するようになってきました。いのちとは生きている温かみのある存在です。そして、多くの困難に立ち向かい、めげない強い精神力を宿していきます。それが「いのち」です。
つまり、永遠のいのちとは死後が保証されているだけではありません。私たちの短い約100年の人生、イエス様と生活を共にすることです。
イエス様と喜び、イエス様と楽しみ、笑い、イエス様に感謝し、讃美し、時として苦しい道をイエス様と共に歩む、温かいいのちを毎日、毎日経験することです。そして、日々、イエス様と共に歩みながら、イエス様の優しさ、偉大さ、喜び、希望、感謝、忍耐、共に理解し合うこと・・たくさんのものをいただきながら、イエス様を感じながら生きて行くことです。
その世界は素晴らしいです。
わたしは、あなたの王であるだけではなく、あなたの最良の友でもある。わたしと手を携えて、あなたの人生を歩もう。二人一緒なら日々何が起きても立ち向かえる。・・・・喜び、冒険、失望・・・。
わたしと分かち合えば、無駄になることはひとつもない。わたしは失った夢の灰の中から、美しさを引き出すことが出来る。悲しみの中から喜びを集め、逆境の中に平安を見出す。この神の錬金術を成し遂げることができるのは、王の王である友ただひとり。わたしのような者は他にはいない。
わたしがあなたに与える友情は実際的で、地に足がついたものだが、天の栄光に満たされている。わたしのもとで生きることは、同時にふたつの世界で生きることを意味する。見える地上の世界と目に見えない永遠の現実と・・
わたしはあなたに十分な備えをした。ほこりまみれの世俗の道を歩みながら、ずっとわたしのことを感じていられるように・・・。 サラ・ヤング
*1 ヨハネの福音書3章1~8、16~21節
3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
3:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。
3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
3:21 しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
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