新しい命令と古い命令
2021年3月7日
ヨハネの手紙第Ⅰ 2 章 7 1 1 節
397年のカルタゴ会議で 27 巻の新約聖書が出来上がりました。
2章7節にある「みことば」とは旧約聖書のことであり、また、当時口伝や記録として残っていたイエス様のおことばです。しかし、この当時流行していた、新しい教え、「グノーシス」は旧約聖書あるいは、イエス様のおことばを「古いもの」とし、この「グノーシス」の教えこそ、今の時代に必要な新しい真理としてい教会に入ってきました。ヨハネは旧約聖書やイエス様の教えは決して古い教えではない、いや、むしろ新しい教えであることを強調します。
今次総会期で岩上代表が3つの方針を立てました。
① 健全な神学(信仰と生活における唯一の基準としての聖 書)に基づいた教団運営。
② メソジスト神学に基づく実践(きよめの神学理解の深まりと健全な実践)
③ 伝道と教会建設を優先的に取り組み続ける群れ
簡単に要約しますと、聖書ときよめと伝道です。インマヌエル教団はこの3本柱を基本として成長してきました。もっと簡潔にいいますならば、「聖と宣」です。もう一度、ここに立ち返ろうとおっしゃっておられます。 とても大切なことです。
歴史はよく、振り子に例えられます。聖書、きよめ、そして、伝道を中心にやってきました。とにかく、一人でも多く受洗者が与えられ、会堂が建設され、そして、 教会が建て上げられていく。多少いろいろなことを犠牲にしても、邁進していこう、と言って、成長してきました。しかし、人間はどこまで行っても不完全なので、どこかにしわ寄せが来ます。知らず、知らずのうちに、誰かが傷ついていく、そこにはあまり、目を留めてきませんでした。そして、様々な形が出来上がり 、また社会や人の価値観が変化し、 IT 技術が進み、さらにコロナ禍で、動きが止められていく時、 今まで気がつかなかった人の痛みにやっと気づきます。そこで、また、振り子が今度は、緩やかな方角へ進みます。その結果、 神学がおろそかになり、また 訳が分からなくなって、もう一度、基本に立ち返ろうと、振り子がまた、 別の方向へ行き始めます。 残念ながら、中間はないです。私たちは歴史から、多くのことを学びます。
聖書に戻ります。では、ヨハネ先生がおっしゃる「古い命令を新しい命令として書いているとはどういうことなのでしょうか。」ヨハネはイエス様の愛弟子です。新しい命令、戒めとしてイエス様がおっしゃっている場面があります。それは、十字架前の告別説教です。イエス様の遺言の中にあります。ヨハネの福音書 13 章 34,35節です。「互いに愛し合いなさい。」です。 15 12 にもあります。 ヨハネの手紙第Ⅰの 2 9 「光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でも闇の中にいるのです。」古い命令であり、新しい命令とは「互いに愛し合う」ことです。
異端から教会を守るために神学や教理はとても重要です。そして、教会を建て上げることも、受洗者を一人でも多く求めることも重要です。けれども、そこに「愛」がないなら、騒がしいドラや、うるさいシンバルと同じです。パウロが強烈な皮肉を言っています。
明治時代に活躍した浅見仙作という文書伝道に専念した人がいます。彼は、反戦平和を訴え、国の迫害を受けましたが、メソジスト教会で洗礼を受けます。そして、ある日一人の男性に出会います。その男性は一家 5 人を殺害し、放火した罪により死刑宣告されます。仙作は
この死刑囚と出会い、手 紙と聖書を送ります。こんな手紙です。「人は表面しか見ませんが、神様は人の心の内を知られます。聖書には『兄弟を憎む者はみな、人殺しです』 ((Ⅰヨハネ 3 15) とあり、私は心の中で、放火も殺人も姦淫も窃盗も、ありとあらゆる罪を神の前に犯しました。私の罪はあなたとは違い、まだ表に出ていませんが、神の前においては差がありません。イエス・キリストは私のような重罪人の身代わりとなり、死刑をお受けになってくださったのです。 その救いによって、山のような罪から逃れ、天の御国に入ることができるのです。」
この手紙を読んだ死刑囚は「聖書を分かりやすく説いた本を送ってください。」と返事をし、仙作が送った聖書と数冊の本を読み、やがて信仰を表明しました。そして「主の救いにあずかり、天国に帰ることを指折り数えて待っています。」と書き送ったのを最後に死刑囚の刑が執行されました。仙作は死刑囚の死後も、その遺族を訪問します。死刑囚の両親と2 人の妹、そして 6 歳になる息子は、世間からつまはじきにされ、人目を避けて町から遠く離れた小屋に住んでいました。仙作は突然の訪問に驚く彼らを慰め、福音を説きました。彼はそのことをきっかけに文書伝道に励み、札幌刑務 所で死刑囚の伝道に力を入れました。死刑囚に対しても等しく福音を伝えた仙作によって、神の国はますます広がっていきます。
私は「人を愛する」という、メッセージをあまり聞きたくありません。それは、私の内に愛がないことが露骨にされるからです。 でも、それは良いことだと思います。「イエス様、私には愛がありません。あなたの愛を与えてください。」と祈ることが出来るからです。
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