教会の交わり


2022年10月16日 メッセージ要約

使徒の働き2章37~42節  *1

次週の23日(日)には上田キリスト教会の60年周年の記念礼拝が藤本満先生をお迎えして持たれます。その大切な記念礼拝を一週間後に控えて聖書のどこから何を語らせていただこうかと祈り思い巡らしていました。その中で最後的に、先程、司会者がお読みくださった聖書の箇所から「教会の交わり」と題して語るように示されました。


イエス・キリストは十字架につけられ身代わりの死を遂げられて3日目によみがえられました。それから40日後に天に上られ、待ち望んでいたその10日後の五旬節の日に弟子たちをはじめ120名ばかりの者に聖霊がくだり、聖霊に満たされました。これがペンテコステ、聖霊降臨日です。その直後にペテロが明快に力強く説教し、心刺され、悔い改めて、救われ、バプテスマを受けて弟子たちに加わった3千人の人々によって教会は始まったのです。そこで、42節を中心に「教会の交わり」について3つのことを学びたいと思います。


第一 キリストを中心に一緒にいる


42節に「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」とあります。救われたクリスチャンが神さまに召されて集まっているところを「教会」ということばで呼ばれますが、以前は「交わり…コイノニア」ということばで呼ばれていました。「コイノニア」ということばは「共同体」「仲間意識」「配偶者」などさまざまな意味を持っています。しかし、新約聖書では「イエス・キリストに対する共通の信仰をもっている人々の中にある親密さ」という意味で用いられています。それはイエス・キリストを信じている者、神と交わっている者の間にかもし出される他にない霊的な親しさ、また、親しい交わりのことです(ヨハネ第一1:3)。

使徒行伝はこのような、信徒相互に生まれた、親しい霊的な交わりが、さらに物質をも分かち合うという親しい交わりになったこと、さらに破られた交わりが回復されて、前よりもいっそう親しい交わりが生まれたことなどを記しています。


このような交わりの中で、一人の人の喜びは当然、他の人々にも喜びとなり、一人の人の悲しみは、他の人々の悲しみとして受け取られ、全体の関心事となりました。パウロは「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」(ローマ12:15)と述べているのはこのことで何とすばらしい交わりではないでしょうか。

その特徴は「一緒にいる」ということでした。42節に「彼らはいつも…交わりを持ち」とありますが、44節には「信者となった人々はみな一つになって」とあります。彼らは一つ信仰告白のもとに集まり「一緒に」にいました。その「信仰告白」の中心は、イエス・キリストご自身でした。ペンテコステの当日におけるペテロの説教(使徒2:14~36)は、徹頭徹尾「イエス」についての説教でした(使徒2:22、23、24、25)。このイエスについて33節をご覧ください。「神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。」と言っています。

すなわち、初代教会では人となり十字架につけられ、復活され、天に上り、聖霊を注がれたイエス・キリストを信仰告白し一緒に集まっていたのです。イエスさまはかつて地上におられたとき「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」と言われました。主が臨在される交わりでした。


ある若いクリスチャン夫婦の幼い子どもが召されました。悲しみのどん底の中で主日が来ましたが、教会の礼拝に出席する気持ちにはなれませんでした。しかし、思い切って出席したのです。礼拝の中での賛美も聖書も説教も心に何も響かず空しかったのです。ところが最後の会衆の賛美のとき、天で自分の子が賛美している姿が浮かんできたのです。そのとき、子どもが天国で一緒に礼拝していることに気づかされ、喜びに変えられたのです。それはキリスト中心の交わりの中で起こったことでした。


第二 使徒たちの教えを守り


42節に「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り」とあります。このとき使徒たちは自分たちが3年間イエスの弟子として生活して主から教えられたこと、目撃し経験したことを教えたと思います。しかし、同時に当時は今のように新約聖書がまだない時代でしたが、旧約聖書からも教えたと思います。それによって養われ、成長し、信仰に励んだのです。ここに、「いつも」とありますが、これは「ひたすら」「心を集中して」聖書を読むということです。さらに、「守り」とあります。使徒の教えを本当に信じていいのだろうかというように疑問をもったりすることなく聖書は誤りのない神のことばであると確信もって信じ信仰を守ったのです。


ひとりの青年牧師が有名な説教者であるスポルジョンのもとに来て、「わたくしが聖書の中にある説教の材料を全部、使い尽くしたらどうなるでしょうか?」と言いました。するとスポルジョンは、ニッコリ笑って言いました。「あの小さな魚は、大洋のまん中で、水がなくなったらどうしよう、と言うでしょうか」と。詩篇23篇1節でダビデは「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」と歌っています。「乏しいことがありません」とは「なにも欠けるものがありません」という意味です。聖書を読みイエスを知るとき、主は私たちの人生を満ち溢れさせてくださいます。聖書は汲めども尽きない大洋のような無尽蔵の宝庫であり、いのちの源です。ですから、もし、私たちが聖書を読まなければ、その損失は測り知れないものがあります。

ですから、日々神の前に静まって聖書を読み黙想することはクリスチャン生活にとって大切です。


 その大切な理由が4つあります。第一に、聖書が私たちの成長に欠かせないものだからです。成長するとは、神の愛を知り、キリストに似た者となること、つまり、キリストの品性をもつ者に変えられることです。第二、自分をきよく保つ力、また罪や誘惑から守る力を与えてくれるからです。聖書を読むこと自体に、私たちをきよく守る力があります。第三に、主に導かれるためにです。神によって日々の生活を導いていただくためにも、聖書を毎日読むことが必要です。聖書は、私たちの人生の行く道を示してくれるガイドです。第四に、主からの知恵が与えられるからです。聖書を読み、みことばを中心に生活する人には、神から知恵が与えられ、人間に対する、また生活の中に起こって来るさまざまな出来事に対して深い洞察力が与えられます。

そこで、クリスチャンは毎日、聖書を読み、神と交わる静かなときをもつとともに、日曜日ごとに教会の主日礼拝に出席し、説教者が聖書を通して取り次ぐ神のメッセージを聞き、霊性を養い、信仰においって成長し、神のみ心に応答していくことが大切です。


第三 共にパンをさき  


「パンを裂き」とは、聖餐式と言われる礼典で、初代教会では礼拝ごとに行われていましたが、今は各教会で定期的に執り行われています。今日は時間の都合で省略します。


第四 祈りをしていた


私たちにとって「密室の祈り」が必要であることは言うまでもありません。それは神さまと一対一でささげる祈りで、神さまは個人の祈りを喜ばれ、その祈りに答えてくださり、大いなる恵みのみわざを経験させてくださいます。私たちは霊的なことにおいて、実際的なことにおいて、物質的なことにおいて、癒しにおいって多くの祈りに答えられたことを経験して来ました。

しかし、同様に、「祈り合う」ということ、「祈りにおける交わり」も非常に大切です。「祈りをしていた」は、これは個人の密室の祈りではなく、キリストの救いを受けた者たちの集まっての祈りです。使徒の働きの12章ではヘロデ王がクリスチャンを迫害し、ペテロを捕らえ牢に入れました。そのとき、「こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた」(5)記されています。その結果、祈っていた人々すら信じていなかったことですが、ペテロが奇蹟的に開放されたのです。

世の中にはいろいろな集まりがあります。例えば、PTA、趣味、実業家、文学者の集まりなどあります。それらの交わりの中では、互いに反目し合い、批判したり、争っていても、メンバーであることは可能です。しかし、「祈りの交わり」はそのようにはいきません。肝に一物持ちながら、心を合わせて祈ることはできません。しかし、祈りの交わり」をするためにはお互い受け入れ合い、へりくだらなければなりません。それで「祈りの交わり」をすれば、互いに一つ心になります。また、クリスチャンの結束を固めます。いわば、煉瓦を積み上げて行くときのセメントのような役割をはたします。


母教会の今の会堂が建築されたとき、銀行でお金を借り建てることになりました。5階の鉄筋コンクリートの建物ですから、地面を深く掘り基礎工事が始まりました。ところが途中で銀行が宗教法人にはお金を貸すことができませんと断られたのです。半世紀も前のことです。教会はピンチに立たされました。そこで、皆が教会に集り、また個人で朝に夕に祈りが続けられたのです。その一致の祈りの結果、建築会社が銀行からお金を借りてくださり、教会はその建築会社に支払うことになり、ピンチを切り抜けることができました。祈りに答えてくださった神さまに心から感謝しました。

イエスさまは、「あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。」(マタイ18:19)と言われました。教会の2千年の歴史は、神が、教会の祈り、クリスチャンが一致して祈る祈りを喜ばれ、さらに大いなる栄光を現わしてくださるお方であることを、多くの事例をもって証ししています。神は生きておられて、祈る時、ありとあらゆる状況に答えてくださるお方だからです。


そして、使徒の働きを読み進めていくときに、初代教会がこのように歩むことができたのはご聖霊のお働きでした。そのために私たちは聖霊によって信仰生活を送る者でなければなりません。しかも、現代は終わりの近い悪い時代です(エペソ5:16~18)。神の方法、霊的なことをから目をそらされてしまう時代です。

しかし、今日教えられたように初代教会の姿に倣って歩みたいと思います。キリスト中心に一緒に集まり、聖書を学び、信徒の交わりと祈りの交わりを持ち、恵みに満ちた教会を建て上げ、使命を果たす教会を目指しましょう。



*1 使徒の働き 2章37~42節

2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。

2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。

2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

最新記事