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恐れないで、ただ信じていなさい


2021年12月26日メーセージ要約

マルコの福音書5章21~43節 *1

 2021年、最後の礼拝になりました。コロナ禍の中、特別集会の中止、夏は2ヶ月間礼拝が会堂で持てない状態となりました。それでもZoomやYouTubeの礼拝は続けることができました。礼拝は1回も中止することはありませんでした。様々な点で信仰が試みられた1年でしたが礼拝を1回も休止することはありませんでした。これが一番の恵みです。皆さんもそれぞれに大きな試みを通過されてきたと思います。中には厳しい試練を通過されている方もおられます。けれども、こうして皆さんと最後の礼拝を迎えることができたことは大きな神様の憐れみです。

 2021年のおことばは「恐れないで、ただ信じていないさい。」マルコの福音書5章36節です。私たちは講壇に掲げられているこのおことばを毎週見てきました。イエス様はこの1年間、私たちに「恐れないで、ただ信じていなさい」と語り続けてくださいました。

 

 会堂司のヤイロは小さな娘の病をイエス様に治して欲しいと懇願します。しかし、ヤイロが耳にした言葉は「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」です。万事休すです。


高いアルプスにある窪地に生きる花。窪地の残雪は昼は太陽に温められ、夜は寒気にさらされ氷結します。しかし、その凍った雪をつけぬけて無傷の花が咲きます。ソルダネルという高山植物があります。夏の間その葉を広げて太陽光線を吸収し、冬の間その熱は根に蓄えられます。しかし、その上には容赦なく雪が降り積もります。しかし、その根に蓄えられた熱は芽が出るたびに、上部の雪を溶かして小さな丸天井を作ります。芽はどんどん大きくなり、その上には釣鐘上の空気があります。その中でつぼみが安全に作られて、ついに氷を破って日光の中に花を咲かせます。植物が生きることができないと言われている場所でも神様の御業は生き続けます。


私たちは、小さな人間的な希望を持っています。自分の経験、あるいは能力、自分の感覚、経済、その他の様々な拠り所。それらは私たちが持っている希望です。しかし、神様の業は高いアルプスの中で花を咲かせます。そこには想像を絶する寒さ、空気の薄さ、生きて行くのは難しい世界です。私たちは思います。こんなところには花は咲かないと。つまり、私たちの小さな経験、希望はいとも簡単に崩れてしまう場所です。私たちの経験が通用しない場所です。


「恐れないでただ信じていなさい」とのイエス様のおことばは、万事休すがスタートであることを意味しています。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」この言葉に対するイエス様のおことばは「恐れないで、ただ信じなさい。」です。

全てが終わった、その瞬間にイエス様の御業がスタートします。

もう駄目だと思ったその瞬間がスタートです。まさに2021年、私たちは何度もこのスタートを切ってここまでたどり着きました。

「恐れないでただ信じていなさい。」の意味は、万事休すは実は神様の御業のスタートです。


2つ目です。では、万事休すからスタートした後にどのように歩めばよいでしょうか。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」この言葉に対するイエス様のおことばは「恐れないで、ただ信じなさい。」です。ヤイロがきいた言葉はあまりにも、残酷で残念なものでした。早く家に帰って、娘の安否を確かめたいと思ったことでしょう。私の想像ですが、イエス様は慌てなかったのではないかと思います。その、イエス様の後をヤイロは一歩、一歩ついて行ったのではないでしょうか?


私たちはとてもせっかちです。次の曲がり角はどうなっているか?そしてさらに、その奥には何があるだろうか?来年コロナはどうなるだろうか?教会の体制はどうなっていくだろうか?神学院に入学する人があるだろうか?上田教会の後継者はいるだろうか?

来年は救われて洗礼を受ける人が与えられるだろうか?さらに10年後はあるいは老後は・・・と。


広大な砂漠を横断するために、朝、ベッドから起きた旅人は道のない荒れ地を見渡します。そこには一つの道標もなく、誰かが踏み固めた道もありません。その旅人がすることは一つだけです。それは、旅人の道案内人に従って、一歩また一歩と人跡未踏の荒れ地を横切る旅を続けることです。そして、こんな表示があります。「人間的な知恵によってあなたの道を決定しようとしてはならない。その方法では、主の小道をみいだすことはない。」と。

時には、霧の立ち込める道。時には、太陽の輝いている道。時には、飽き飽きするような重荷を負う道。時には、快適で楽しい道。しかし、いつも、どんな道にもイエス様の後に従う道です。しかも一歩一歩です。

どうして、一歩一歩なのでしょうか?走ってはいけないのでしょうか?

それは、イエス様が私たちに与えてくださった道を照らす光の範囲は、ほんの小さな円にすぎないからです。ですから明日のことは見えません。その範囲は次の一歩を踏み出す部分のみです。しかし、私たちが一歩踏み出すと、次の一歩分が照らされます。つまり、一歩一歩なのです。

へブル人への手紙11章8節「信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。」と。アブラハムも先が見えない旅でした。


私たちが向かう2022年も先が見えません。コロナ禍の2022年、さらに上田教会は荷が重くなります。しかし、一歩一歩でいいのです。


イエス様は私たちに「恐れないで、ただ信じていなさい」とおっしゃってくださいます。恐れずに2022年皆さんと一緒に前進いたしましょう。イエス様は必ず私たちが行くべき道を示してくださいます。


皆様お一人、お一人イエス様に従って来られました。本当に感謝です。そしてお疲れ様でした。


2022年もご一緒にこの度を続けてまいりましょう。


*1 マルコの福音書 5章21節~43節

5:21 イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。

5:22 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、

5:23 いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」

5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。

5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。

5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。

5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。

5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。

5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。

5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」

5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。

5:33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。

5:34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

5:35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」

5:36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」

5:37 そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。

5:38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、

5:39 中に入って、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」

5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。

5:41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。)

5:42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。

5:43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。




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