御子による救い
2024.10・13礼拝説教 コロサイ1:3~14*1

新約聖書にはパウロが獄につながれているとき書いた「獄中書簡」と呼ばれている手紙が4つあります。教会宛に書かれたエペソ、ピリピ、コロサイ人への手紙と個人に宛てに書かれたピレモンへの手紙です。これらは同じ時期に書かれたものと推察され、たぶん使徒の働き28章の末尾に記録されている、ローマでの二年間の軟禁生活のときに書かれたのでしょう。紀元61年~62年頃のことだと思われます。
コロサイの教会がいつ誕生したのかはさだかでありません。しかし、7節で「あなたがたは私たちの同労のしもべ、愛するエパフラスから福音を学びました。」と言っていますからパウロがエペソに3年間滞在し伝道しているときコロサイ出身のパウロの弟子であったエパフラスの伝道によって生み出されたのでしょう。
パウロはそのエパフラスからコロサイの教会の人々のことを聞いて、彼らが「信仰と愛と希望」に立っていることを知り神に感謝しました。そのことが3節から5節に書かれています。
そこで、パウロはさらに彼らの霊的成長のために9節から14節で七つのことを祈りました。その七つめの12節から14節では「御子による救い」を感謝し、希望をもって生きるように祈ったのです。経験の順序に並べますと第一に14節で、過去のすべての罪からの救いの感謝です。第二に13節で、過去から現在までの恵みの感謝です。第三に12節で、未来の望みに対する感謝です。すなわち、過去・現在・未来を通して与えられている「御子による救い」を十分に味わい、自分のものとし、感謝の応答をもって生きるように勧めているのです。そこでこの朝はこの三つの感謝から学びます。
ここで気づかされることは、感謝の理由にあげられているものに、一つも世的な肉的な物質的なものがないということです。私たちは自らの信仰生涯を思い起こすとき、魂のことだけに恵みが与えられたのではないことに気づかされます。いろいろな生活上のことで神さまからときにかなった恵みと助けをいただいてきました。
私が神学校に在学していたとき、母教会に母と、とても仲の良い姉妹がいました。母は教会でその姉妹と会うのがとても楽しみで、礼拝後歩いて7~8る分くらいのところにある加茂川に行き、ベンチに座って二人でよく楽しい交わりをしていました。あるとき、母はその姉妹の近い親類の方に牧師がおられ、田舎でとても貧しい生活をしてご奉仕をしておられることを聞きました。今から50年以上も前のお話です。それで、母は私が神学校を卒業して遣わされて、孫にそのような貧しい生活をさせるのかと思ってとても心配しました。
でも、私が遣わされるとき母教会の牧師夫人がピリピ人への手紙4章19節のみことば「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。」(口語訳)を開いて、「大丈夫。神さまは必ず必要を満たしてくださいます」と励ましくださり、祈って初陣の信州の岡谷に送り出してくださいました。真実な神さまは不思議をもって私たちの必要を満たしてくださいました。
今日まで、どれほど神さまは生活上の助け、病のいやし、いろいろな問題の解決を与えてくださったかわかりません。ですから、日常の祈りの中でこういう問題のため祈り、祈りが答えられたことを忘れないで感謝するのは当然です。神さまもそのことをお喜びになります。これを私たちは恵みと言ったり、祝福といったりします。もし、こういう言い方がゆるされるならば、おかげをこおむり、ご利益にあずかっていると言えます。これらの祈りを否定する理由はありませんし、自ら実行していますから奨励する者です。
しかし、ここにある感謝の三つの理由が全く純粋に霊的であることです。「御子による救い」によってなされたみわざの感謝であることです。この恵みを真に自分のものとして味わっている者こそ、常に喜び、すべてのことを喜ぶことができ感謝できるのです。
そこで、純粋な霊的な感謝の源である「御子による救い」がどのようなものであるかを私たちの経験から14節、13節、12節の順番で学びます。
第一 過去の贖いの感謝
14節をお読みします。「この御子によって、私たちは、贖い、すなわち、罪の赦しを得ているのです。」と言っています。「贖い」というのは「代価を払って奴隷を買い取る」ということから来たことばです。私たちはイエス・キリストの値積ることのできない血の代価によって、罪が赦され生まれ変わり霊的ないのちに生きる者とされたのです。
ですから、罪を赦されたということがクリスチャンの初め、始まりであり、これがクリスチャンライフの土台であり、クリスチャンの本質、欠くことのできない要素です。
私の大先輩の牧師が若い頃飯田の町で牧師をしておられ岡山県の香登という農村の教会に遣わされました。あるとき、朝寝坊して起きると周りの田圃ではお百姓さんが日の出前から畑仕事をしておられたのです。朝寝坊したのが恥ずかしく急いで雨戸を開け戸袋に入れました。ところが一枚目を慌てて入れたため斜めに入れてしまったのです。そのため4、5枚目を入れようとすると入らなくなりました。そこで慌ててもう一度入れたのを出して入れ直すことになりました。ところがお百姓さんが何人も見ていて、それはそれは恥ずかしかったということです。
罪の明確な悔い改めができていないと雨戸が戸袋に入らなくって行き詰り、救いの喜びも与えられません。何人もの方が恵まれたように見えるクリスチャン生活を送りながら「私は救いがはっきりしていません。その喜びがありません。」と言われお導きし明確な救いの喜びの生涯を送られるようになりました。ですから罪の悔い改めとイエスさまの身代わりの十字架による救いが明確であることが大切です。そのとき、生まれ変わり、永遠のいのちに生きる者とされます。さらに義とされ、何の罪も犯さなかった者と認められ、神と和解し、神さまとの愛の自由な交わりの生涯に入れられるのです。
私は23歳のとき、入院中に罪と十字架がわかり、ベッドのうえでで思い出せる限りの罪を悔い改めました(Ⅰヨハネ1:9)。そのとき、ローマ人への手紙3章28節、「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」(口語訳)とのみことばが心に聞こえてきました。信仰によって明確な罪の赦しと生まれ変わりを経験し、心は晴れ晴れして、これが私の人生に永遠にすばらし恵みをもたらすスタートになりました。私たちは救われたことを感謝せずにはおれません。
第二 現在の恵みの感謝
13節をお読みします。「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」(13)。救われて現在受けている恵みのことです。私たちは暗闇の力から救い出されて御子の支配下に移されたのです。闇・暗黒とは無知の意味があります。俗に「私は東京に暗い」と言えば、それは不案内であり迷ってしまうことを意味します。科学は進み、医学は進歩し、情報はあふれ、世界の出来事を瞬時に知ることができる便利な時代です。しかし、生まれながらの人の心は暗黒で、神はわからない、人生もその目的も意味もわからない、天国もわからず未来も未解決なのです。
さらに暗黒の世界は罪悪の世界です。「あの人に暗いところがある」と言えば、それは不正を意味し、その人は不義と不正と偽りの生活を送っているのです。胸に手をおいて自分は全く正しいと自覚することができる人は一人もいませんし、良心のとがめをもたない者はいないのです。それを足掛かりにして「暗闇の力」とありますが、これは「サタンの力」で、その支配の中に生きるのです。しかし、私たちをキリストにあって「暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」。
使徒の働き26章18節を見てください。「それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。」と言っています。キリストが心に住んでくださり、支配し、みこころに生きる者としてくださるのです。
イエスさまが十字架で死なれ、3日目に復活されました。ご自身を弟子をはじめ多くの人々に現され、40日後に天にお昇りになる前に、弟子たちに「見よ。わたしは、私の父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)と命じられました。イエスは「力」は「いと高き所から」来ると言われました。私たちのまわりにある力ではなく、私たちの内にある力でもありません。
私の若い頃京都の母教会の前は市電の車庫でした。市電が車庫を出た所で西に行くか東に行くか南に行くかでパンダグラフの方向を変えるのです。電車の屋根にはパンダグラフがついていて、架線につながっています。上つまりパンダグラフから流れてくる電流によりモーターが働き電車が進むのです。もちろん運転手はいますが、電気の力をコントロールできません。このように、私たちは電車と同じように上から力をいただくのです。その力の源泉は、聖霊なる神ご自身です。そして、聖霊が、私たちの人格と霊をコントロールしてくださり、レールの上を走らせて下さるのです。神の「レール」は「みこころ」です。私たちはとても弱い者です。しかし聖霊は私たちの意志をコントロールして神のみこころに従って歩ませてくださいます。イエスの霊である聖霊によって御子のご支配よって生きるようになるからです。
それでパウロはエペソ人への手紙で「御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18)、そしてガラテヤ人への手紙では「御霊によって歩きなさい」(ガラテヤ5:16)と命じています。「歩く」とは「生活する」ということです。私たちはこのキリスト、御子の支配に移されました。それは聖霊に導かれる生涯のことでその恵みに生きる者とされたのです。何と幸いな生涯に入れられたことでしょうか。感謝せずにはおれません。
第三 未来の望みの感謝。
今まで、過去のイエス・キリストの救いと現在の御子による、すなわち聖霊によるご支配の恵みについて語ってまいりました。ところが将来のことですが、12節をお読みします。「また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」と言っています。自分のような者が光にある聖徒の一人とされているということです。それだけでも信じ難いことですのに、それだけではありません。その聖徒たちには、「相続分」の望みがあるのです。
ここでは「相続分」と訳していますが「嗣業」のことで、つまり、永遠に受け継ぐべき天にたくわえてある資産(財産)のことです。結論的に言えば、「栄化の恵み」と「光の子たちが住むにふさわしい新しい場所」、さらに「蓄えられている霊的な資産」が与えられるのです。ペテロの第一の手紙1章3~4節を開いて見ましょう。「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。また、朽ちることもなく、汚れることも、消え行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。」ですから、やがて私たちに与えられる天に蓄えられている霊的資産は「朽ちることもなく、汚れることも、消え行くこともない」もので人間が作り出すことも考え出すこともできない想像を超えたものです。この嗣業を受けるということを感謝せずじにはおられないのです。
私たちは「御子による救いに」あずかり三つの感謝せずにはおれない恵の生涯に入れられました。ですから、私たちは地上にあってことばで言い現わせない「御子による救い」にあずかった感謝に対して何をもって報いることがげきるでしょうか。それに応答する日々を送りたいと思います。
そのために誰もが求められていることは礼拝の生活を大切にすることです。十戒の第四戒には「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」とあります。「安息日」の原語は「シャバス」で「止める」を意味しています。「聖」は「聖別する」、「分離する」意味です。ですから日曜日は働きを休んで聖別(分離)して礼拝をささげる日です。また礼拝は一週の始めの日に置かれていて一週の生活の一切の始めでもあります。ですから、日曜日はまず、何をおいても聖別して礼拝をもって「始め」ることを自覚し心に留めて大切にしたいと思います。
さらに祈りの生活です。聖書を読み神さまと交わるお祈りはとても大切です。私は朝の祈りを大切にしています。それが恵みの生活を送る秘訣になっています。しかし私のように引退し比較的時間がある人たちばかりではありません。ですから毎朝、時間や場所決めてお祈りすることが大切ですが、短くなるかもしれません。けれども休日や祝日、特別な休暇のときなどに、生活を工夫して少し時間を聖別し、聖書を読み、お祈りするようにすることです。神さが今日求めておられるのは祈りの人です。
私は何度もお話ししていますが牧師の務めを終え上田の地に導かれ上田教会で礼拝と祈祷会に出席させていただいています。もちろん運動も散歩もしますし自然を楽しませていただいています。読書も音楽も楽しみです。
しかし、引退する前に今後をどのように生きるかを考えていたとき、神さまは高齢者であるヨシュアにこう言われたみことばを示されました。「ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。主は彼に告げられた。『あなたは年を重ね、老人になった。しかし、占領すべき地は非常にたくさん残っている。』」(ヨシュア13:1)と。そして、私には「占領すべき地は非常にたくさん残っている」ということに気づかされました。
そこで、私は、神さまのためにどんなことがげきるか(doing)よりもどういう関係にあるか(beinng)を大切にするを視点で次の4点にしぼりました。礼拝と祈りを大切にすることを前提に①主をさらに知ること。②キリストに似た者にされること。③神に喜ばれる者となること。④福音を伝えることです。それで教会で2024年新年聖句の募集があり、今日の10節「また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。」を提出しました。きれいな栞を作っていただき大切に使っています。
一週間ほど前、中国のチベットに出かけ約20年宣教師のお働きをしてこられた姉妹と電話でお話ししました。ご存知のように今は完全に宣教の門が閉まっていて入国できません。それで今は日本に来ている外国の人々が定着できるように支援をしておられます。同時に大阪の枚方に住んでおられ京都に病気のお姉さんがおられますので、救われるようによく訪ねて行かれるそうです。また小学校から大学の時代、その後の社会生活の中で知り合った人たちが近辺に多くおられ、訪問したりお会いして福音を伝えておられるとのことでした。それでとても忙しい生活をしているとおっしゃっていました。
この4月に召された星野富弘さんのことです。人生の目的、生き方を求めて「いのちよりも大切なものって、なんですか」と多くの人が星野富弘さんにこう質問をされたそうです。「聖書を読んであなたが自分で探してみてください。本気で探し続ければ必ず見つかりますよ。私もみつけたのですから」というのが星野さんの回答だったそうです。
私たちお互いは年齢、家庭、仕事、置かれている事情等々がそれぞれ違いますし、また様々な悩みの中を通ることもあるのが私たちの地上の人生です。しかし、私たちは「御子による救い」にあずかり、過去を感謝し、今を感謝するに者とされました。それだけでなく、やがってこの卑しいからだが栄光のからだに化えられ、新しい場所に住み、「聖徒の相続分にあずかる」のです。それは私たちの想像をはるかに越えたすばらしいことです。信仰によってこの希望に生き、お互いにこの朝、どう生きることがこの恵みに応答することになるのかを聖書から教えられて励み、主に喜ばれ、実を結ぶ、神の栄光となる生涯を送らせていただきたいと思います。
*1 コロサイ人への手紙 1:3-14
私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。
1:4 それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。
1:5 それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。
1:6 この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。
1:7 これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。彼は私たちに代わって仕えている忠実な、キリストの仕え人であって、
1:8 私たちに、御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました。
1:9 こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。
1:10 また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。
1:11 また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、
1:12 また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。
1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
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