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夜が明け始めていたころ

2021年4月18日

ヨハネの福音書21章1~5節

「夜が明け始めていたころ」


蒲谷さんが上野宏樹さんを偲ぶお花をいけてくださいました。

私たちは、突然想定外の悲しみ、苦しみに遭遇します。このお花が慰めになります。

 今朝は、想定外の苦しみの中でイエス様が、私たちにどのように現れてくださり、癒しの恵みを与えてくださるのかを見て行きたいと思います。イエス様は多くの人々の病を癒し、律法学者も、かなわない知識を持ち、人気があり、弟子たちは日増しに増えていきます。いつも変わらずに真理を語り、子どもを愛し、弱い人々、貧しい人々の味方でした。政治家になる理想の人です。弟子たちはイエス様を中心とした国が造られて、ローマからの支配を脱却できるかもしれないと考えていたかもしれません。そして、イエス様を中心とした国で力を持ちたいと、ひそかに野心を持っていました。ところが、イエス様は犯罪者として捕らわれ、十字架刑に処されます。しかも、一夜のうちに状況が一変します。弟子たちはその変化について行けず、理解ができず、大変困惑していました。イエス様にすべての期待をかけ、イエス様中心の国で、多くの人々に影響を与える人になるという希望は打ち砕かれました。

 ヨハネの福音書21章3節で「私は漁にいく」とのペテロの言葉がそれを物語っています。あれは、夢だった。イエス様のことは忘れて、以前の無名の漁師に戻る、との意味です。ペテロにイエス様の後を継ぐ気量も、力もありませんでした。ペテロが辞めるならば、と主要な弟子たちもペテロの後に続きます。イエス様の沈黙です

 旧約聖書もマラキ書から福音書が登場するまで、聖書は400年間沈黙します。とても暗い沈黙です。

 しかし、イエス様は私たちには見えないように存在されていました。以前メッセージでお話しした、炊き出しに並ぶイエス様の姿を思い出してください。アイヘンバーグの木版画です。

5000人に給食を配るイエス様ではありません。なんと、逆にイエス様が炊き出しに並んでおられます。イエス様ならば、多くの人に食べ物を与えることはいとも簡単にお出来になります。しかし、イエス様が、ご自身の飢えを満たすために炊き出しに並んでおられます。そして、並んでいる人々も誰ひとり、まさかイエス様が並んでおられるとは思いません。


イエス様は炊き出しする側におられるのか、それとも、それを受ける側か、どちらなのでしょうか。アイヘンバーグは、イエス様は、手助けを必要とするまでに、悲しみ、苦しみ、そして、飢えている人々の中にイエス様がおられると感じました。とても、考えさせられます。


ティべリア湖畔で、失意の中にいる弟子たちの中に、宏樹さんを天国に送り、大きな悲しみの中にいる私たちの中に、イエス様はおられます。いつも、強く、たくましく、何でも出来る全能の神様ではなく、傷つき、悩み、苦しみ、人々からの援助を受けなければ生きて行けない、完全に受け身のイエス様がおられます。ですから、4節「夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。」のです。まさか、イエス様が失意の中にいる私たちの傍らに失意を持っていてくださるとは、私たちも気がつきません。

 深い悲しみ、想像を絶する喪失、自分を責める思い、抜け出せない苦しみ、その中に炊き出しに並ぶイエス様がおられることを覚えたいと思います。心が悲しみ、喪失、孤独、焦りでいっぱいになると、岸辺に立たれたイエス様に気が私たちは気がつきません。しかし、今日はイエス様に気がつきましょう、という、メッセージではありません。むしろ、「気がつかなくてよい」のです。悲しみの中にいても良いのです。想像を絶する失意とたたかう必要はありません。

私たちはそのような中にいる人々を励まそうとします。「信仰に立って」「気持ちを切り替えて」「忘れて」「楽しく生きて行こう」すべて、厳禁です。「イエス様を見上げて」は微妙ですが、きっと言わない方が安全です。


炊き出しに並ぶイエス様はおことばを語りません。けれども、傍にいてくださいます。それを知っていれば、それで良いと思います。

そして、イエス様は神様ですから、私たちの痛みを知り、イエス様の方法で、1人、1人、違うやり方で癒されます。イエス様と静かに炊き出しに並びましょう。

 そして、丁度良い時に御声をかけてくださいます。傷心のペテロに声をかけてくださいます。その声掛けは「食べるものがありませんね」です。しかし、皆、同じではありません。一人、一人みな違います。同じ悲しみにいる家族であっても違います。イエス様は私たち1人、1人をよく、ご存知です。


水野源三さんの「ひとりではない」です。


1. 世の努めをはなれ病にふすときも

  1人ではない 1人ではない

  死んでよみがえらたイエスキリストが

  見守りたもう その目で見つめよ


2. 親しき友が皆別れていく時も

  1人ではない 1人ではない

  死んでよみがえられたイエス・キリストが

  話しかけたもう その耳で聞けよ


3. 頼りなき自分に失望する時も

  1人ではない 1人ではない

  死んでよみがえられたイエス・キリストが

  励ましたもう その口でたたえよ


炊き出しに並ぶイエス様は、私たちに何を語られるでしょうか。

祈りの心を持って、そのおことばを待ち望みましょう。


私たちは気がついていませんが、夜は静かに明け始めています。

でも、私たちはイエス様だとは気がつきません。

それで良いのです。イエス様からは私たちが良く見えています。


宏樹さんのたましいがイエス様の御許で安らうように、

上野家の方々のために、私たちのために、静かにお祈りいたしましょう。


(今週のおことば)

夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。

けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。

        ヨハネの福音書21章4節

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