可能と不可能の狭間で

2022年4月3日 メッセージ要約
創世記18章1~15節 *1
1節にあるマムレの樫の木は13章18節にも出てきます。そこは甥のロトと別れてカナンの地に住み始めた時に神様がアブラハムに「あなたの子孫を地のちりのように増やす・・」と語ってくださった場所です。アブラハムはこの場所に祭壇を築いています。13章~18章まで一体何年かかったのでしょうか?アブラハムはこの時、99歳になっていました。その間、イシュマエルが誕生します。アブラハム86歳。さらにアブラハム99歳の時、もう一度神様はアブラハムに現れます。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全きものであれ。」と。それは、「わたしはあなたの必要を全部備えている神である。だから、わたしに完全に依存せよ。」との神様の仕切り直しであったことを学びました。アブラムはアブラハムとなり、サライはサラとなりました。17章では神様はアブラハムに語られます。そして、18章ではサラに語られます。
アブラハムは17章で神様のおことばをそのまま受け入れました。しかし、15節、サラはイサクの誕生を告げた神様のおことばを受け入れずに、笑います。17章でアブラハムに語られ、さらに多くの男子が割礼までして神様の約束を受け取っている有様を見ていながら、サラは信じることができませんでした。「・・・そんなことが本当に起こるはずがない・・」と。13章でアブラハムが祭壇を築いた頃は、信じていたかもしれません。しかし、神様の約束はなかなか来ませんでした。サラはイシュマエルを設けることを考えます。そのイシュマエルも大きくなりました。アブラハムとサラには少しだけ信仰に違いがあったようです。
コリント人への手紙2章9節~16節を読みます。特に14節「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。」とあります。
サラはアブラハムの妻として非常に賢い人でした。短時間でとてもおいしいパン菓子を作ることができました。機敏な人でした。さらに知性も感情的にも優れた女性でした。
私たちは知性と感情を働かせて何らかの決断をします。しかし、その知性と感情はサタンに用いられる道具となっていることを心に留めておく必要があります。創世記3章でヘビはエバの知性に働きかけます。創世記3章4,5節を読みます。「あなたがたが神のようになって善悪を知る者となる・・」と。あなたは神のように賢くなる・・と。サタンはエバの知性に入っていきます。さらに、知性が感情を揺さぶります。そこで、女が見ると、その木は食べるのによさそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。「好ましかった。」という感情につながっていきます。そして、それを食べてしまいます。
一方、信仰を持つときにも知性と感情を使います。信仰は知性と感情から入ります。罪がある事、十字架を信じることが罪を解決する手段であること、そして、信じた時に何とも言えないすがすがしい気分になる事・・しかし、この時、知性と感情だけではなく、実は神様の霊、御霊、いのちが働いています。
コリント人への手紙第Ⅰ15章45節には「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後の人アダムはいのちを与える御霊となりました。と書かれています。最初の人アダムは知性と感情によって生き、サタンに誘惑されました。しかし、最後の人アダムとは、「イエス様」のことです。「イエス様」は私たちにいのちを与える御霊を与えてくださいます。この「いのちの御霊」が可能と不可能のはざまで、どのように私たちが用いるかが鍵となります。
神様がサラに語られた話は知性と感情だけでは理解が出来ません。しかし、上からの御霊のいのち、つまり、イエス様の御霊をいただく時、はっきりと理解することができます。上からのいのちは、聖書を読むこと、祈る事、さらにこのような礼拝に出席する事、つまり、「霊的な営み」によってしか、成長しません。どうしてでしょうか?
私たちの知性と感情は、創世記3章を読むと分かるように、堕落したいのちに汚染されています。「生まれながらの人間は神の御霊に属することを受け入れることができない」のです。ですから、サラにイサクが与えられる、なんてことは信じられないのです。
私たちはイエス様を信じています。しかし、私たちが信仰を単なる問題・課題の解決としかとらない時、残念ながら、霊的なことはなかなか理解できません。私の○○を何とかしてください。私の○○の願いをかなえてくださいという次元に信仰が留まっているなら、私たちはサラと同じように神様の奇跡のみわざを笑う存在になります。知性と感情で信仰を捕えているからです。
では、アブラハムのように神様を信じることができるためにはどうしたらよいでしょうか?それは、立ち止まって考える必要があります。「どうして、私は信じることができないのか?」と。「可能」と「不可能」の狭間で立ち止まって、自分の心を神様に点検してもらう必要があります。そして、上よりのいのち、御霊をいただく必要があります。目に見えない世界は霊の世界です。霊の世界は上よりの命をいただかない限り理解できません。
さらに、私たちは何に拠って判断するでしょうか?世の常識でしょうか?自分の経験でしょうか?それとも、誰かの意見でしょうか?
「今の世の中がこう動いているから」、か、あるいは、「今までこうだった、この次もこうだろう」か、あるいは「○○が言ったから私はこう決める」、でしょうか。実は、これら、すべては、残念ながら下から来る領域の知恵です。知性と感情による判断では、霊的な判断はできません。
しかし、それらをすべて、神様の上からの知恵で判断するなら、つまり、神様の働きに、私たちが全く同意するなら、私たちはたちまち「霊的なことに目が開かれていきます。」もう少し、分かりやすくお話しするならば、「私はこの件に関しては、不可能だと思う。でも、神様にはお出来になる。」と単純に信じるならば、私たちのものの見方は変わってきます。上よりのいのちを豊かにするには、聖書を読むことと祈ること、集会に出席する事以外の方法はありません。
最終的な決断を神様の霊によって導かれるお互いと、なりたいと思います。
サラは打ち消して言った。「私は笑っていません。」恐ろしかったのである。しかし、主は言われた。「いや、確かにあなたは笑った。」
創世記18章15節
権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって・・
ゼカリヤ書4章6節
*1 創世記 18章1節~15節
18:1 【主】はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。
18:2 彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。
18:3 そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。
18:4 少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。
18:5 私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」
18:6 そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」
18:7 そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。
18:8 それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した子牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。
18:9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます」と答えた。
18:10 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。
18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。
18:12 それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」
18:13 そこで、【主】がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。
18:14 【主】に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」
18:15 サラは「私は笑いませんでした」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」
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