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主の山には備えがある


2022年6月19日 メッセージ要約

「主の山には備えがある」

*創世記 22章1~19節*1

 今日は父の日です。私たちにはお父さんがいます。今日は自分のお父さんに感謝をしましょう。お父さんは社会で私たちを育てるために働かれます。外に出ると「7人の敵がいる」と言われていますが、厳しい環境の中で黙々と働いているお父さんに感謝しましょう。


 ペンテコステが終わりました。先週も福井先生から「さらにまされる恵み」と題して、本当に素晴らしいメッセージをいただきました。感謝致します。


しばらくぶりでアブラハムに戻ります。アブラハムには約束の子「イサク」が与えられました。5月最後のメッセージは祝福の中にある日向と影からハガル・イシュマエルをも顧みてくださる神様の憐れみに目を留めました。


 憐れみ深い神様は、アブラハムに最大の危機をもたらします。22章2節。「イサクを全焼のささげ物として献げなさい。」5月の最期の週でもお話ししましたが、これも神様のみこころです。ハガル・イシュマエルは神様の御心の中、家から出されました。アブラハムも、イサクを全焼のささげ物として献げなさい。」と言われます。神様がもし、私たちにも同じことをおっしゃられたのなら、私たちはどうするでしょうか?


 アブラハムにとって、「イサク」は神様の約束の子です。25年待って、待ってやっと与えられたイサクです。このまま、順調にいくなら、イサクが結婚して子孫が増え広がっていくはずなのに、それは神様の約束とは真逆のことです。


 にわかに信じることが難しい神様のお告げ。このような時、私たちがどのように行動すればよいかをアブラハムは教えてくれます。

3節、「翌朝早く」「ろばに鞍をつけ」「二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った」「薪を割った」「神がお告げになった場所へ向かって行った」へブル書11章17~19節にはこう記されています。

「・・神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。・・」アブラハムの心は悲しさと苦しさでいっぱいだったと推察します。しかし、悲しい心を抱えたまま、淡々と行動するアブラハムの姿を見るような気がします。アブラハムは神様を信じていました。    神様は最後の最後までアブラハムを試します。22章4~10節。アブラハムはイサクに向かって、刃物を取り出して屠ろうとしました。・・


その時、神様は「アブラハム、アブラハム・・その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。・・あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは自分のひとり子さえ、惜しむことがなかった。」と。そして、13節一匹の雄羊が角を藪にひっかけていた。アブラハムをそれを取り、全焼のささげ物として献げます。

止まりそうになっていた呼吸が回復したと思います。


 

 アブラハムの信仰・行動から厳しい試練が与えられた時の対処法

①「神は善にして善を成したもうお方」と信じる。

②そして、その通りに行動する。しかし、私たちにはその力はありません。そのような時に、力を与えてください、と祈り深く前進していきましょう。

③アブラハムは「主の山の上には備えがある」という信仰にたどり着きました。私たちも、試練の中にあっても、アブラハムの信仰にまで着いて行きたいと思います。もしかすると、アブラハムは途中で旅を止めることもできたかもしれません。また、神様の声を、「聞こえないふり」をすることも出来ました。しかし、アブラハムはその方法はとりませんでした。あえて、厳しい選択をしました。そして、最後、「主の山の上には備えがある」ことを実際に経験することができました。


     これは、イエス様の十字架の型です。

父なる神様はイエス様を助けることはしませんでした。イサクは助けられました。しかし、イエス様は最後の一滴まで血を流されました。それは、私たちの罪からの救いのためです。


イエス様が十字架で苦悶の死を遂げられたのは、一言で言えば「私たちのため」でした。私たちの代わりに罪人として苦しみを受けられました。私たちの罪をその身に負い、私たち自身が受けなければならない苦しみを代わりに受けてくださいました。


罪の問題が解決しない限り、真の平安はありません。十字架は私たちの心を縛り付けているプライド、劣等感、偏見、焦り、思い煩いから解放します。どこに行っても、何をしても解決できなかった罪の問題から解放してくださいます。

その意味で「主の山の上には備えがある」と言うことができます。




「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」

     コリント人への手紙第Ⅱ5章21節


「アブラハムは、その場所をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も『主の山には備えがある』と言われている。」

      創世記22章14節



*1 創世記 22章1~19節

22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。

22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。

22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。

22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。

22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。

22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」

22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。

22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。

22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」

22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。

22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

22:15 それから【主】の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、

22:16 仰せられた。「これは【主】の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、

22:17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。

22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

22:19 こうして、アブラハムは、若者たちのところに戻った。彼らは立って、いっしょにベエル・シェバに行った。アブラハムはベエル・シェバに住みついた。

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