サラの埋葬


2022年7月10日 メッセージ要約

「サラの埋葬」

創世記 23章1~9節 *1

アブラハムの旅もいよいよ終わりに近づいてきました。そして、今日の箇所で長年連れ添った、サラが天に召されます。アブラハムはサラのために土地を購入しそこを私有の墓地にしました。

12章でサラと一緒にハランを出発したアブラハム。そこから、長い旅をしてきました。なんといってもイサクの誕生はアブラハムとサラの信仰の賜物です。いろいろなことがありましたが、アブラハムとサラはいつも一緒でした。そのサラが天国に召されました。

配偶者との死別は人生最大のストレスと言われています。先日も前総理大臣が全く予想もしない形でこの世を去りました。ご婦人のストレスは想像することができないほどの悲しみです。


しかし、私たちはいつか、信仰の旅路を終えて天国に召される日が来ます。伝道者の書3章にはすべてのことには定まった時期があり、天の下の営みに時がある。以前もお話しましたが「時」には2つあります。刻まれていく「時」と神様の「時」です。そして、伝道者の書の時は神様の「時」を表しています。


神様の「時」なので、刻まれていく「時」とは違います。生まれるのに「時」があり死ぬのに「時」があります。これは、神様が定められている「時」です。

私たちはエペソ人への手紙1章4,5節で学びました。「世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」と。


「世界の基が据えられる前から・・」です。私たちがイエス様を信じることも、また、私たちが生きることも、死ぬことも神様の御手の中に握られていることがわかります。


アブラハムは長年連れ添ったサラを墓に葬りました。それは、神様の時でした。


私たちはいつまでも、今日ある事が永遠に続くことがないことを覚えたいと思います。


木曜日の祈祷会のメッセージで福井先生が、語られました。


人は「あしたに希望を持とうではないか」と言って、毎日希望に向か って前進しているようですが、それはただ同じことを繰り返しているに過ぎないのです。サタンはこの世に本当の意味で希望がないことを知りつつ、私たち人間に何か希望(希望の可能性)があるかのように思わせるように働いているのです。 そして、今なお「人間は英知を持った者だから必ず良くなって行くのだ、人間は 進化の絶頂にあるのだから更に進化へと進んで行くことが出来るものだ、人間は 賢いものだから……」などと、そう言った可能性があるとささやくのです。 ところが、人間の努力による進化では希望が持てないのです。最も進化したはずの現代ですが、地球温暖化、倫理道徳の低下、戦争と核の恐怖、格差と貧困、 避難民の増加、疫病の脅威、宗教的迫害等々に直面し希望がもてないで、むしろ 不安の中にいます。人間の進化、あるいは物質、環境等を根拠にしては本当の意味での希望を持つことができません。それは人間中心の生き方だからです。 聖書は人間中心の生き方にはどんな状況の中にあっても決して奪われることの ない希望(生ける希望)はないと言っています。と。


しかし、私たちは思うのです。明日も今日のように同じように続く。もしかすると今日よりも明日は良い日ではないかとのかすかな希望を持ちながら。しかし、実は明日は何が起こるか分からない非常に不安定な「時」なのです。そして、私たちが良そうもしない時に、私たちに、あるいは大切な家族に「死」が訪れます。


サラの死はどうだったのでしょうか?2節には「さらはカナンの地、キルヤテ・アラバ、すなわちヘブロンで死んだ。」と記されています。病気なのか、事故なのか詳しいことは書いてありません。


23章を見ていただきますと、アブラハムは、ヒッタイト人から土地を購入して、しかも高額な値段で購入します。そこにサラを丁重に埋葬しました。


アブラハムはいつも、どんな時も神様を信じてきました。創世記15章6節には「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」とあります。神様を信じたその結果、アブラハムは神様の前に義と認められます。「義」とは神様の前に正しい者と言う意味です。主の山の上には備えがある。イサクを捧げる時も、神様はイサクを死からよみがえさせられることができると信じました。もしかすると、サラの時にも天国への希望を持っていたかもしれません。


私たちは、日々信仰の旅路をたどっています。私たちもやがて、愛する家族を埋葬し、また、自分も天国へむかいます。神様の定められた時が来たならばです。


そして、今週の祈祷会で語られました。聖霊は、私たちに栄光の希望(御国の望み)を明示してくださいます。それは 私たちの思い込みではありません。エペソ人への手紙1章13節、14節をお読みします。「このキリ ストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞 いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は 私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」とあるように、あなたがたがイエス さまを信じて聖霊を頂いているということは、あなたがたが間違いなく地上の生涯を終えたとき、神の国に入れて頂けるという証印であり保証だからです。なんという感謝なことでしょうか。


私たちは日々、悩みます。クリスチャンらしくないな、という心があります。また、弱さの中でもがきます。自分は果たして、一体天国に迎えられるのだろうか?と。しかし聖霊が保証してくださっています。印鑑を押しってくださっています。神様の一方的な憐れみです。

 

*1 創世記23章1~9節

23:1 サラの一生、サラが生きた年数は百二十七年であった。

23:2 サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた。

23:3 それからアブラハムは、その死者のそばから立ち上がり、ヘテ人たちに告げて言った。

23:4 「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば私のところから移して、死んだ者を葬ることができるのです。」

23:5 ヘテ人たちはアブラハムに答えて言った。

23:6 「ご主人。私たちの言うことを聞き入れてください。あなたは私たちの間にあって、神のつかさです。私たちの最上の墓地に、なくなられた方を葬ってください。私たちの中で、だれひとり、なくなられた方を葬る墓地を拒む者はおりません。」

23:7 そこでアブラハムは立って、その土地の人々、ヘテ人にていねいにおじぎをして、

23:8 彼らに告げて言った。「死んだ者を私のところから移して葬ることが、あなたがたのおこころであれば、私の言うことを聞いて、ツォハルの子エフロンに交渉して、

23:9 彼の畑地の端にある彼の所有のマクペラのほら穴を私に譲ってくれるようにしてください。彼があなたがたの間でその畑地に十分な価をつけて、私に私有の墓地として譲ってくれるようにしてください。」

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