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どうしてそのようなことが


 2024年12月8日礼拝メッセージ ルカによる福音書 1章26~38節 *1

今年もイエス・キリストのご降誕をお祝いするクリスマスが近づいて来ました。クリスマスの楽しい思い出が数えきれないほどあります。その中で小中学生の頃の楽しいクリスマスの思い出の一つは雪の降るホワイトクリスマスです。私は京都府の舞鶴という日本海に面した町で育ちました。当時は豪雪地帯で特に夜の集会のとき、小さな木造の会堂から電灯の光が真っ白な雪の世界を照らし出しとても美しかったことです。もう一つはクリスマスツリーの飾り付けを大人の人たちと一緒に楽しくしたことです。ツリーの先端には段ボールで作た星に銀紙を貼った星を付け、その星を見て、イエスさまがお生まれになった夜の星や星の美しい砂漠を旅する東方の博士たちの物語を思い出してうきうきした気持ちになったことです。今から思えば、貧しい時代のクリスマスだったかも知れませんが、子どもの頃の楽しい楽しいクリスマスでした。

そのイエス・キリストのご降誕、クリスマスを迎えるための準備の季節がアドベント・待降節で今日から第二週に入ります。欧米の国々の中には厳粛にこの季節を過ごすところもあります。日本では一年で一番忙しい季節ですがクリスチャンは、「キリスト誕生の預言と成就」「クリスマスの話と聖書箇所」を中心に黙想し祈って日々を過ごします。特に欧米で家庭や教会でクレッシュと呼ばれる「飼葉桶の飾り物」飾ったり、お菓子屋さん、雑貨店、ブティックなどのショーウインドーも、腕によりをかけて飾り付けをします。また、日本の教会ではクリスマスツリーやタペストリーなどで飾たり、アドベント・クランツの上に四本のローソクを立て、日曜日毎に一本ずつ点火されて、四本点火すると、いよいよクリスマスということになります。

今年は私たちの教会ではSさんが洗礼をお受けになります。ご本人が礼拝に出席しておられますが、とても嬉しいことです。おめでとうございます。ですからなおさら嬉しい喜びのクリスマスをお迎えすることができます。

この朝の聖書の箇所は、御使いガブリエルが神からナザレのマリアのところに遣わされ聖霊によって男の子を身ごもり、救い主の母となることを告げるところです。このことを私たちは毎週の礼拝の使徒信条で「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤよりま生れ」と信仰告白しています。私たちはイエス・キリストを救い主と信じて救われたのですが、毎週礼拝での信仰告白を通して、神の前とこの世の人々にむかって「私たちが数い主と信じているイエス・キリストは神のひとり子であり、聖霊によってマリヤに宿り、人となってお生まれになり、十字架にかかり死なれ、3日目によみがえられ今も生きておられるお方です。」と告白しているのです。

そこで、どのようにして神であるキリストがマリアに宿られたのか。キリストの母となる栄光にあずかったマリアがどのような女性だったのかを学び、その信仰に倣いたいと思います。


第一 マリアへのみ告げ

「御使いガブリエルが、神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来」(26)ました。一人の処女とはマリアです。ガリラヤは都エルサレムから遠く離れた所で、ナザレはその地方でも山の中にある辺ぴな小さな寒村でした。マリアはその村の10代後半の見た目には特別目立つことのない普通の女性でした。ダビデ家の出とはいえ世は移り変わり今は落ちぶれの身となった貧しい大工のヨセフとすでに婚約していました。この婚約には結婚と同じ拘束力がありました。マリヤは貧しいかもしれませんがヨセフと結婚し二人で神さま中心の家庭を持てることをとても楽しみにし、幸せを感じていました。

そのヨセフと婚約していたマリアの前に突然御使いが現れたのです。当時でも、このように、御使いが現わにれるということはまれでした。ルカの福音書では、祭司ザカリヤにバプテスマのヨハネの誕生を告げたとき(1:11~13)。イエスがお生まれになる夜、ベツレヘムの郊外で羊の番をしていた羊飼いに救い主の誕生を告げたとき(2:9~12)。復活の朝、十字架上で死なれ葬られたイエスさまのために、香料を丁寧にお塗りしようとお墓に来た婦人たちにイエスの復活を告げたとき(24:4~6)だけです。 

マリアは常日頃祈りをとおして神さまと親しい交わりをもっていた敬虔な女性でした。しかし、このとき突然現れた御使いがマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」(28)と個人的に親しく声をかけました。すなわち、「あなたは、どの女性よりも神の愛顧を受けた方です。なんと祝福された人でしょう。」と声をかけたのです。

突然、御使いから声をかけられただけでなく、このような卑しい者が神から格別に愛されているとは何を意味するのだろうかと、「マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」(29)のです。「戸惑う」はひどく胸騒ぎがして不安を感じたということです。また何の意味があるのだろうかと「考え込ん」で思いめぐらしました。

そのマリアに御使いは言いました。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。」(30)。この語りかけにはいつも神と交わり、霊的な天的な空気を知っていた信仰深い敬虔なマリアでしたから恐れの心はありましたが、ある程度冷静に受け止めることができたと思います。

でもこの後は、恵みどころではないことが御使いから告げられたのです。それが31節から33節です。聖書をお読みします。「見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父のダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません」。

「受胎告知」この聖書の個所をある人はこう訳しています。「ご覧なさい。あなたはみごもって男の子を産みます。その子をイエスと名付けなさい。人々を救う者となるからです。その子は超人的な人となり、聖い神の子と呼ばれます。また主である神は、旧約聖書に記された救い主の約束通り、ダビデの王座に着かせ、その支配はとこしえに続き、終わることはありません。」

これを聞いたマリアは、あの旧約聖書に約束されていた救い主の母に自分がなるということを悟りました。しかし、人が神の子を宿し、その子を産むなどということはマリアの理解の範疇を越えていました。


第二 マリアに聖霊が臨んで

マリアは「あなたは身ごもって、男の子を産みます。」(31)と告げられたとき、彼女は戸惑いました。それでマリアは「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」(34)と自分の恐れと思いを御使いに告げました。

祭司ザカリヤもバプテスマのヨハネがエリサベツから生れると告げられたとき、「私はそのようなことを、何によって知ることがだきるでしょうか。」(18)と尋ねています。彼は、「自分たち夫婦がもう老年なので子どもを産むことなど不可能です。」と言いたかったのです。ですから、「子どもが生まれるとするなら、何らかのしるしを見せてくださるでしょうか」と尋ねたのです。それである注解者がザカリヤの質問は神さまに「疑い」、「不信仰」の質問と受けとめられた言っています。

これに対して、マリアの質問は「信仰による驚き」です。マリアは「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」(34)。このマリアの問いかけは、否定的に、あるいは拒絶的にとられやすいのですが、原意はそうではありません。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。」は「どのようにして、それは可能なのでしょうか」と訳せる言葉です。マリアは、決して御使いのことばを疑ったのではなく、彼女の常識を超えたことがどのように起こるか、その方法を聞いたのです。つまり、マリヤは「男の人を知りません」でした。しかもマリアの賛歌の48節で「この卑しいはしため」と言っていますが、これは「奴隷女」の意味で、そのような女性から神の子が生れるはずはない。でも、「神さまがおっしゃるのであれば、それは可能なのでしょう。しかしそれはどのようにして実現するのですか」と尋ねたのです。

神は天地万物の創造主であり、支配者であり、無から有を生じさせることのできる全能の神です。ですから、マリアが結婚していなくても、処女マリアに子どもを宿すことが神のご計画であるならば、それは可能です。そこで御使いはマリアに「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます」(35)と告げました。つまりマリアから「聖なる者、神の子」が生まれるは「ご聖霊のお働きによるのである」と主の御使いは答えました。

永遠で無限の神が、どのようにして時間や空間に制限されている人間になることができるのか。その人間が罪なきご存在となれるのかという問題を、私たちは説明できるでしょうか。科学の粋を集めても不可能でしょう。神が人となられた「受肉」という大切な事実、「処女降誕」は、神がとられた方法です。そして、それは聖霊なる神のお働きであると御使いは告げました。ですからイエスは神が人となられたお方、マリアの子であると同時に神の御子、聖なる人であると同時に神なのです。ですからまことの人でありまことの神であり、全く罪のない唯一のお方です。

もう一つのことは、御使いは、マリアの信仰による理解を助けるために、親類のエリサベツの例を挙げています。「見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは何もありません。」(36)。

エリサベツの場合とマリアの場合は、全く違います。エリザベツの場合は、処女降誕ではなく、常識を超えた老人の妊娠ということでした。しかしマリアの場合は、「処女降誕」です。似ている点はいずれも常識を超えたことであるということです。信仰とは、常識を超えたことです。しかし、人間の常識を超えたことでも、神が語られることであれば必ずその通りになると受けとめるのが信仰なのです。

そこでマリアは「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(38)と御使いの語りかけに応答しました。マリアがこのように従うことができたのは「神にとって不可能なことは何もありません」(37)との神のみことばを信じた信仰にによるのです。

マリアはエリサベツが子を宿して六か月経った頃訪ねました。そのとき、エリサベツは「私の主の母が私のところに来られるとは」(44)と喜び「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」(45)とマリアを賞賛しました。神さまはそのマリヤの信仰を通してマリアに受胎告知された約束の通り聖霊のお働きによってご自分の一人子をこの世に送てくださいました。その一人子である全く罪のないイエス・キリストの十字架によって人類の救いの道が開かれました。

私たちは今非常に混沌とした時代、不安、恐れ、迷い、行き先不透明な時代に生きています。そして人々はどこかに確かな生き方はないか、何かに頼って生きたいと捜し求めつつ、自分を守ろうと懸命です。しかし必要な大切な第一のことは、神の一人子であるこの罪のない救い主イエス・キリストの救いにあずかることです。そして生まれ変わりを経験し、永遠のいのちに新しく生きる者とされることです。そこから全てが始まります(Ⅱコリント5:17)。その上で礼拝を重んじる生活を送り、毎日(毎朝)一定の場所と時間を決めて神と交わりるときを持ち、みことばに聞き信じ従って聖霊の導きの恵みによって生きることです。

戦後の日本のキリスト教界に大きな影響を与えられた牧師である安藤仲一先生のことです。ある福音的な団体のトップの先生が世田谷中央教会に先生をお訪ねになりました。お話しの中で「先生がこのように神さまに用いられた秘訣は何ですか」とお聞きになられたのです。先生は少し考えて「日々、神さまと交わり、『今日も主を愛します。今日も主を信じます。今日も主に従います。』と主に申し上げて日々生活してきたことでしょうか。」と言われたそうです。救われて後、神さまとの交わりを日々大切にして生きるとき、この混迷の時代にあっても揺り動かされることなく余裕をもって、確信をもって生きることができます。


第三 マリアの献身

37節と38節の間にマリヤの心をよぎったことがありました。マリアは御使いから「受胎告知」受ける前は貧しくても大工のヨセフと結婚することに喜びと幸せを感じていました。ところが、マリアがヨセフと一緒にならないうちに、御使いから「聖霊によって身ごもる」と告げられました。ですから結婚前に婚約者が知らない間に身ごもっていたということになるとこれは大問題です。それは、①婚約者のヨセフを裏切ったことになります。また②人々のうわさの種になり、マリア自身が恥ずかし身の置き所のない状況におかれるだけでなく、③家族も恥ずかしい状況にさらすことになります。さらに、④疑問が解けなければ「姦淫罪」で恐ろしい石打ちの刑に処せられることになります。

しかし、心によぎったことが起こるかもしれない全てを全能の主に委ねて、マリアは、「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(38)と自分を全く神に献げました。マリアは神のみこころがなるように自分を差し出しました。「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」「ここに私はいます。あなたがなさりたいようになさってください」という白紙委任状で、神を信頼しすべてをゆだねました。マリヤの献身のこの一言があればこそ、神のひとり子であられるイエス・キリストのご降誕が実現したのです。

この御使いの告知にマリヤは「私は主のはしためです。」と答えました。「はしため」とは「奴隷女」ということです。さらにマリヤは48節で自分のことを「この卑しいはしために」と率直に言っています。マリヤは、自分は民の中で卑しい身分であり、そして神の前では奴隷女にすぎませんと言い表わしました。そのような謙遜なマリアに神の恵みは親しく臨みました。

聖書は天使の堕落も人間の堕落もすべての原因はその高ぶりにあったと教えています。神がもっとも嫌われるのは「高ぶり」であり、信仰の成長において最もむづかしいのが謙遜ではないでしょうか。何が何でもいつも自分が上でなければ承服できない心、それが高ぶり、傲慢です。これに対して謙遜とは、自分ような罪深い者が救われたことを心底から感謝し、常に自分を神の下におく、人の下において仕えていく生き方です。謙遜は神の恵を受け、神のために用いられる秘訣です。

 神が選んで用いられる人は、昔も今も、男性である女性であるに関係なく謙遜な心の信仰の人です。金持や権力ある者よりもまず謙遜であることです。ですから、私たちは家柄や学歴、社会的立場などを誇ったり羨んだりすることなく、今の状態で今持っている賜物を感謝し神に用いていただけるように謙遜な心で励みたいと思います。

もう一つのことは、このマリアの応答に救いの全てがかかっていたことです。これは人間的な言い方ですが、もしそのときマリアが主の申し出を拒んでいたら、十字架も復活も昇天によるペンテコステも御霊によるキリストの内住の恵みもなく、私たちの復活、栄化もなく希望のない者であったでしょう。しかしマリアはその時点では神のひとり子の誕生がどのような結果をもたらすか全く何も知りませんでしたが献げて従ったのです。

ですから、今、先行きのことが読めないとしても神さまはあなたを通して大切なご計画を進めようとして、あなたの従順と献身を求めておられるのです。神がなぜマリアを選ばれたのでしょうか。エルサレムには、知性においても家柄においても神の子を宿すのにふさわしい処女がいたと思われるのに、神はそうされなかったのです。ガリラヤに住む貧しい、名もないひとりの処女マリアを選ばれました。

私の母教会で4年前に84歳で召されたある兄弟のことです。お母さんがクリス

チャンでその影響で若いときに救われました。京都の街の小さな印刷会社に勤めておられました。この兄弟が母教会で兄弟姉妹に大きな霊的感化を与えられたのです。口数は少なく、穏やかで、謙遜な兄弟でした。礼拝、伝道集会、夜の祈祷会等々に忠実励まれ、よく奉仕されました。聖書研究などで牧師が聖書のどこの個所にあるかわからないときでもその兄弟にお聞きになると必ず答えられ、聖書に精通しておられました。集会の最後に応答のお祈りをあてられると短くなく、長くなく説教に応答してお祈りされました。定年退職後はお弁当をもってご奉仕に週、数回教会に来られ、会堂清掃などご奉仕をされました。それで教会の兄弟姉妹がこの兄弟のようなクリスチャンになりいと思わされ、多くの教会員の兄弟姉妹が霊的な感化受け成長されました。

私たちクリスチャンは主のために生き、ささげる献身には満足が与えられます。時にはつらく、苦しいことがあるでしょう。しかし、神さまはマリヤに喜びを与えられました。1章47~48節の「神をたたえます。」とは「大きな喜びをもって神をたたえます。」と言う意味です。神への献身の生き方は、神からの喜びが満ちるのです。また、主のために用いていただけたという喜びもあります。

 「おことばどおり、この身になりますように。」と祈り、マリアにイエスさまがお宿りなりました。私たちもイエスさまを心にお迎えし、喜びと希望のクリスマスとなるように祈って備えましょう。同時に伝道するのに良い時季ですからこの喜びの福音を伝えましょう。なお聖霊に導かれつつ永遠に価値ある、主の永遠のご目的にかなう、神さまに喜ばれる人生を送らせていただきましょう。


*1 ルカによる福音書 1章26~38節

1:26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。

1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。

1:28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」

1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。

1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。

1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。

1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。

1:36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。

1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」

1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。


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