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さらにまされる父の約束


2024年5月12日礼拝メッセージ ルカ24:44~53

 教会には大切な記念日が三つあります。「クリスマス」と「イースター」と「ペンテコステ」です。今年はこの19日(日)が「ペンテコステ・聖霊降臨日」で今日はその一週間前の日曜日です。祈りのうちにペンテコステに関するメッセ―ジを示され、「さらにまされる父の約束」と題して語ります。

 そこで、特に49節の「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまで、都にとどまっていなさい。」とのみことばを中心に聖霊について三つのことを語ってまいります。

第一 弟子たちへの約束

ここに「父が約束」とあります。聖書の中には、神の「約束」のことばは3万回出ていると言われています。ところが、その「約束」ということばの中で、この一つのことばだけに定冠詞がついて、「この約束」なのです。ほかの約束には定冠詞がなくただ「約束」です。ですから、49節の「約束」は3万回の約束の中で最も大切なことばです。しかもイエスさまの地上の最後のことばで遺言的な大変重要なことばです。

では、「この約束」は誰に向かって語られたのでしょうか。これは世の中の一般の人々に向かってではなく、弟子たちにです。彼らは確かに、イエスさまを個人的に信じ救われた者たちです。その彼らの名前はすでに天に記されていて3年半主に従ってきました。ですから、「この約束」は弟子たちだけでなく同時に、救われたクリスチャンに対しても語られたことばです。

ところで、彼らの霊的状態はどうだったでしょうか。①弟子たちの数人がサマリヤ地方に伝道に出かけたとき、サマリヤ人は弟子たちを快く迎えませんでした。そのような冷たい態度に対して、「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(ルカ9:54)と言いました。彼らは短気で愛をもって受け入れることができませんでした。

②またイエスさまが十字架にかかられる前の夜の過越の食事のとき、主が弟子たちの足を洗われました。ところが、本来弟子たちが洗わなければならないのに、誰一人お互いの足を洗う者がいませんでした。そのとき、「彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いだろうか、という議論も起った。」(ルカ22:24)のです。イエスさまが苦しみの十字架にかかろうとしておられるのに、お互いの中で一番偉いのはだれかと口論し、互いに反目し、対抗意識をあらわにし、自己中心そのものでした。彼らはイエスさまのお気持ちが全く分からず柔和でなく謙遜がなく主と他の弟子の足を洗う者は一人もいませんでした。 

③さらにペテロです。イエスさまが最も友を必要としておられるとき、ペテロが自分を捨てて逃げると言われました。そのとき、ペテロは主に対して「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)と言い切りました。ところが彼はその舌の根の乾かないうちに3回も主の弟子であることを打ち消しました。彼は愛してくださっていたイエスさまを裏切る、小心な者で、勇気もなく、主と同じに見られることを恥じて拒んで従うことができなかったのです。

しかもイエスさまが復活された日曜日の夜、エルサレムのある二階座敷で弟子たちは、戸を閉め、鍵をかけて息を潜めていました。それは、出て行くと捕えられイエスさまと同じように十字架刑に処せられるだろうと人を極度に恐れていたのです(ヨハネ20:19)。

救世軍のブレングル中将の書かれた「聖潔の栞」という本の中の一文です。『イエスの十字架によって救われ、罪が赦され、新たに生れ変わり、喜びの日々が始まります。そのときから愛情の方向も今までと違ってきます。それにもかかわらず、間もなく自分の忍耐にはなお幾らかの短気があり、その親切には憤りが混じり、その柔和には怒りが含まれ、謙遜のようで高慢があり、イエスを愛する思いの中に十字架を恥じる心があり、心のうちに肉の思いが幾分か含まれていることを知るのです。しかしこれは心の中の経験なので、他人には分かることがなく自分ではよく分かっていてこれでクリスチャンとしていいのだろうかと心苦しく感じるようになります』と。

そのことについてパウロは人が救われ、罪を赦され、義とされ新しく生まれ変わったにも関わらずその内心にある苦しみについてこう語っています。「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。」(ローマ7:19~20)と。

「このような霊的状態にあった弟子たちが、主の救ってくださった目的の生涯を送るためには聖霊とその力が必要でした。それで、イエスさまはその弟子に「わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまで、都にとどまっていなさい」(49)と命じられました。救われた弟子がさらにまされる信仰生涯を送るために「父の約束」の聖霊を授けると言われたのです。この約束は救われた私たちクリスチャンにも言われたことです。


第二 いと高い所から来る力

パウロが「私のうちに住んでいる罪」と言った内心の罪を聖書は「肉とか原罪とか古き人とか自己中心」と言っています。それを解決してさらにまされる恵みの生涯を歩むためにイエスさまはエルサレムで「父の約束」を待ちなさいと命じられたのです。「父の約束」とは「ペンテコステ」のことで、「いと高き所から力を着せられる」恵みのことです。

イエスさまは復活後40日間、地上で弟子やときには五百人以上の人たちに14回ご自身を現されました。そして皆の見ている前で天に上って行かれました(使徒1:9)。その10日後五旬節の日にエルサレムの屋上の部屋でこの「父の約束」を待って祈っていた弟子たちやイエスさまの母たち120人ほどの人々のうちに聖霊が注がれ皆が聖霊に満たされました(使徒2:4)。

この聖霊について、新約聖書には三つの大切な命令があります。➀一つにはキリストはニコデモに対して「御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(ヨハネ3:5)と言われました。御霊によって生まれ変わることは大切です。それは天国に行くためです。しかし、救われて地上で生きる本来の目的のためには、イエスさまは「父の約束」「いと高き所から力を着せられるまで」待ちなさいと言われたのです。

パウロはその解決のためエペソの教会の人々に「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)と言い、さらに、ガラテヤの教会の人々には「御霊によって歩きなさい」(ガラテヤ5:16)と言いました。これが「父の約束」であり、「ペンテコステの恵み」です。「歩く」とは「生活する」ことです。「歩く」ということは聖霊によって自分の家、近所、職場、学校、この世のあらゆる所を歩くということです。私たちが聖霊によって生まれるのも、聖霊に満たされていなければならないのも、すべて聖霊によって生活を続けるためです。

49節の「いと高い所から力」が「天からの力」とも訳されています。ですから、聖霊は私たちの周りにある力ではありません。私たちの内にある力でもお金を出せば買える力でもありません。修行を積めば得られる力でもないのです。「いと高き所」、「天からの力」とは神ご自身から与えられる力です。

電車を例にとりますと、電車は上、つまりパンダグラフから流れてくる電流によりモーターが働いて動くのです。もちろん運転手はいますが、彼が電車を動かしているのではなく、電車を動かしているのはパンダグラフを通って流れてくる電流です。私たちは電車と同じように「いと高き所から」神ご自身の力、聖霊の力をいただくのです。私たちの力の源泉は聖霊なる神ご自身です。そして、聖霊が、私たちのうちに働いてくださり、弱い、欠けだらけの私たちの人格と意志と霊をコントロールしてくださり、レールという主のみこころに従い、歩むように導いてくださいます。  

しかもこの「力」は人格を持った「力」です。使徒の働きの1章8節には「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。」と言っています。ある人たちは、「聖霊を満たしてください」と神に祈ります。ところがその人は、聖霊に満たされるということが何か電気にでもビリッとしびれるようなことと考えます。また別の人たちは、聖霊なるお方を人格としてではなく、何か物をもらうような形として考えています。ところが、神ご自身が私たちの全人格をみ手の中に納められるときに、私たちは神ご自身の力をいただくことができるのです。

では聖霊を受ける秘訣はなんでしょうか。それは示されるところの罪、内なる罪をことごとく言い現わして悔い改め、血潮によって赦され、きよめていただくことです。そして、主に自分を明け渡すことです。ちょうど、手術台の患者が名医の意のままに任せるように、「この私の一切は主よあなたのものです」と。「この存在はあなたのものです」と明け渡し、約束のみことばをいただき信じることです。そのとき、約束の聖霊は来てくださいます。

第三 聖霊によって歩む目的

聖霊に満たされ、聖霊によって歩むことには目的があります。

第一 きよい生活をする

ペテロの第一の手紙には七回ぐらい清くなるように勧めています。「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとなりなさい」(1:15)と勧めています。現代は虚偽、好色、悪意、殺意、ねたみ、憎しみ、盗み、貪欲、中傷、陰口、争い、傲慢など人の心は乱れに乱れていて道徳が地に落ちた時代です。この時代の中でクリスチャンが全生涯をかけて御霊によって「歩く」すなわち生活し、日常生活の全てにおいて清さをあらわすことです。それでパウロは「御霊による聖別(聖め)」(Ⅱテサロニケ2:13)とも言っています。今の時代、「地の塩」(マタイ5:13)、「世の光」(5:14)として存在することこそ、最も大きなあかしです。

第二 キリストの証し人となる。

48節に「あなたがたは、これらのことの証人です。」とあります。そして、イエスさまは「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き1:8)と言われました。そのために、聖霊は力を与えて、私たちをキリストの証し人としてくださいます。私たちは二つの方法で証しすることができます。一つは自分の生活態度を通してです。もし私たちがクリスチャンらしい生活をしていないなら、いくらしゃべってもだめです。さらに、大切なキリストの証しといいうのは、死んだキリストではなく、私たちのうちに生きておられるキリストを証しすることです。これらのことは聖霊によって可能になるのです。


第三 御霊の実を結ぶため。

ガラテヤ人への手紙5章16節で「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」と。クリスチャン生活は御霊によると言っています。そのクリスチャンが結ぶ御霊の実についてガラテヤ5章22節~23節で「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」と言っています。御霊の実はまず何と言っても「愛」です。私たちは御霊によって神を愛し、人を愛する者となれます。そしてこの愛は、第一に神との関係においては「喜び」と「平安」となり、第二に人との関係において「寛容、親切、善意」となり、第三に自分との関係において「誠実、柔和、自制」となります。このことが律法学者たちから尋ねられたときにイエスさまがお答えになった「あなたは心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」また「隣人を自分自身のように愛しなさい。」(マタイ22:37、39)と言われた律法を全うすることになります。

岡谷でご奉仕していたとき、毎夕食はご主人のお母さんと一緒、庭を隔てた隣のお姉さんとも一緒、ご主人の重度身体しょう害の弟さんのお世話もほとんど自分の役割で結婚生活がとても苦しい状況にあった姉妹がおいでになりました。家庭でクリスチャンは自分だけ、そのため教会生活に何の喜びもなくただ日曜日になると礼拝に出席するだけで、兄弟姉妹との交わりもせず、自分の家の近辺にトラクト配布する日にはトラクトを家に持ち帰りゴミ箱に捨てるような生活でした。

5月に特別伝道集会があったのですが、二人の奏楽者の姉妹が4月と5月に出産でやむを得ず奏楽の奉仕をしてくださいました。講師は土曜日の夜は伝道メッセージでしたが、どういうわけか主日の礼拝ではガラテヤ人への手紙2章19~20節から「内住のキリスト」という聖会メッセージをされました。私は特別伝道集会なのにこのようなメッセージでいいのかなと心配しました。ところがこの姉妹、「聖霊によって心に住んでくださるイエスが全ての全てである」とのメッセージを聞かれ、「私の行き詰まりに応えてくださるのはこのイエスさまだ!」と示されたのです。そこで集会の後、内住のキリストの質問をされ私がそれを説明しました。そしてお求めになるようになりました。そして、あるとき、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたちの力は弱いところに完全にあらわれる。」(口語訳 Ⅱコリント12:9)のみことば聴き、与えられ「父の約束」であるペンテコステの恵みを経験され変えられたのです。ある意味で救われたときよりも変えらました。そこから生き生きした喜びと平安のある人生が始まったのです。

ところでこの聖霊の恵みに与ることは天使のようになって失敗をしない完全な人になるのではありません。理解や判断を誤らなくなることでもありません。判断を誤ることもあります。誘惑にかからなくなるということではなく誘惑を受けることがあります。成長のない恵みではなくキリストに似た者に成長していく恵みです。聖霊による生活によって成長していく中で、言葉使いも表情も態度も変わってくるのです。

私は岡谷に住んでいましたが塩尻や松本に行くときは塩嶺峠を利用します。その道路は登っていきますと最初は岡谷の町全体が見え、さらに諏訪湖と諏訪の町が見えるようになり、小さくですが富士山が見えてくるのです。そのように成長していくとき、霊性が引き上げられ、聖書に対する霊の目も開かれてきて豊かな霊的な祝福に与るようになります。

ですから聖霊に導かれて生きる生活では愛されていることを疑うようなことはなくなりますし、決して見捨てられることがないことも確信して歩めるようになります。しかし、主のお心をお痛めしたり悲しませたり、憂えしめることがあるかもしれません。意識的でなくても人に対して口で失敗することも、時には人の心を傷つけることや誤解を与えることもあり得ます。そのときはその人にお詫びすると同時に、ヨハネの手紙第一2章1節に「しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくだる方、義なるイエス・キリストがおられます。」とありますから、罪を言い現わして十字架の血潮によって赦していただき神さまとの正しい関係をいつも保っていくことが大切です。私たちはさらにまされる聖霊の満たしと聖霊に導かれる生涯を送りましょう。


ルカの福音書 24章44~53節

24:44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」

24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、

24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、

24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。

24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

24:50 それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。

24:51 そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。52 彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、

24:53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。

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