さらにまされる恵み


2022年6月12日 メッセージ要約

ヨハネの福音書7章37~39節 *1

私がまだ京都に住んでいた20代の頃、弟と一緒に立山に登ったことがありました。その途中喉が渇き登山道の脇を流れている水を手で汲んで飲みました。京都のお湯のような温かい匂いのする水道水とは違って冷たい匂いのない水で、その美味しかったことを今でも忘れることができません。


ところでイエスはこうに言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」これはユダヤの三大祭りの一つである仮庵の祭りの最後の日にイエスが宣言されたことばです。先週は大切な「ペンテコステ礼拝」をささげましたが、この朝はさらに聖霊について、イエスが言われた宣言から「さらにまされる恵み」と題して語らせていただきます。


第一 受け与えられる聖霊


イエスが、このように宣言されたのは、将来与えられる聖霊について預言して言われたことなのです。それでヨハネは、39節の前半で、「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。」と言い、後半では、「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。」と説明しています。


事実、聖霊は、イエスがご昇天された後のペンテコステの日に教会に与えられました。その日、聖霊を受けたペテロが説教しました。その中で、「神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、……聖霊を注いでくださった。」(使徒2:23)と言っています。それは天に昇られたイエスがまず聖霊を受けられ、それを人々に与えられたと言うことです。これは聖霊の与え主はイエスご自身であるということです。なぜ聖霊はイエスが十字架につけられ昇天されてから後に与えられたのでしょうか。それは、聖霊がイエスの霊であることを教えるためでした。


このことは、聖霊がこの世におられなかったことを意味しません。創世記1章から始まって、処女マリヤによって、イエスが誕生されるまで、神のなさったすべてのことは聖霊によってなされてきました。聖霊は預言者を鼓舞し、聖霊は偉大な奇跡をなさいました。ですから、聖霊がおいでにならなかったということを意味していません。その意味するところは、そのときにはまだペンテコステの日に聖霊が一同に降ったようには、個人的に来ておられなかったということです。なぜですか、それはイエスがまだ栄光をお受けになっていなかったからです。


しかし、ペンテコステ以後の私たちはこの聖霊の注ぎと満たしを受けることができます。ですから、だれでも今ここで求めさえすれば聖霊を受けて満たされるのです。それでパウロはエペソ5章で「御霊に満たされなさい。」(18)と言いました。このギリシャ語は命令形で、「ぜひ、御霊に満たされなさい」ということです。  


しかし、聖霊に満たされるには神の順序があります。まず、カリバリーがあって、次ぎにペンテコステなのです。イエスが十字架の上で私たちの罪を背負い、死なれたときに、栄光をお受けになりました。そしてよみがえられ、その後天に昇られ、聖霊が降ったのです。ですから、今は、罪を赦されたクリスチャンであれば、聖霊の満たしを受けることができます。救われたクリスチャンであればだれでも渇く者は、だれでも必要を感じている者は、だれでも心空しく満たされたいと願っている者は、イエスのもとにきて「飲むならば」聖霊を受けることができます。それで、イエスは言われました、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と。



第二 生かす聖霊


かつて私が奉仕していました静岡県の富士宮の近くに富士川がありました。以前は水量が豊かな川でしたが、ダムが出来てからは、普段はほとんど水がなく細々と流れています。ですから、川底には汚いものがたくさん沈殿していました。ところが、台風が来たり、大雨が降りますと、川底が洗われてきれいになるのです。


エゼキエル書47章ではこの川のように聖霊が私たちの内に来てくださるなら、聖霊は私たちの内にある汚いものをみな流しきれいにされると言っています(9節参照)。これが聖書の約束している聖霊のお働きです。

とこで、皆さんの中に、イエスを信じ、明確に救われているにも関わらず、罪で苦しんでおられる人はないでしょうか。パウロ自身もローマ人への手紙7章でかつて自分が内的な罪で苦しんだことを述べています。パウロは自分の心に別のもの、罪が宿っていることを知りました。それは誇りであったり、自己中心であったり、良い事をしようとする思いはありながら、悪いことをする力があるのを知ったのです。


聖書はそれを「自己中心」とか「自我、古き人、肉、原罪」とい言います。それは救われている者、またそう信じている者の心にある内的な罪、罪の性質なのです。パウロは解決したと思いましたが、自分の力ではどうすることもできない、不可能であることも知りました。

確かに、十字架によって救われた者は、罪を赦され、新たに生まれ、神の子とされ、神の家族とされたのです。ところがしばらくしますと、パウロが言いますように、自分がしたい善をしないで、自分がしたくない悪を行ってしまう自分に気づくのです。忍耐には若干の短気が混じり、親切には憤りを混じえ、その柔和には怒りを含み、謙遜の中には高慢が混じり、イエスを愛すると言いつつ十字架を恥じる心が混じると言うようなことです。


これは他人には解からなくても、自分には熟知していて、心苦しく思うのです。個人の信仰生活における問題、または教会内におけるトラブルの原因が、ほとんどこの恵に与(あずか)っているか否かにかかわりがあるのです。 私たちの心の中に、このような罪が宿っていますと、私たちは勝利あるクリスチャン生活を送ることは出来ません。このような汚れた心、自己中心の罪を洗い流すためにイエスの血潮によって罪がきよめられ、聖霊に満たされることです。


以前、岡谷にいましたとき、安曇野の大王わさび園に何度か行ったことがあります。園の中は一面わさびが作られています。このわさびは飲むことが出来るようなきれいな水で成長して実っているのです。私たちの内に、聖霊が来てくださるとき、私たちは御霊の実を結ぶようになります。その御霊の実のことがガラテヤ人への手紙5章22~25節に記されています。また、イエスは、聖霊は上からの力であり、この聖霊に満たされるとき、私たちは力を受けて、エルサレム、ユダヤからサマリヤそして地の果てまで福音を伝える証人となると言われました(使徒1:8)。


みなさんは御霊の実を結ぶ生活、また、イエスを証しする生活を送っておられるでしょうか。もしそうでなければ、聖霊に満たされることが必要です。だからこそ、イエスさまは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」と言われたのです。

 

また、川は流れ続けなければ、川底に汚い物が溜まってしまいます。水の流れが止まったり、濁ったりすると、わさびは命を失ってしまいます。ですから、聖霊の満たしというのは継続的なものでなければなりません。パウロが「御霊に満たされなさい。」と言っていますが、これは、「御霊に満たされ続けなさい」と言う意味です。



 第三 信仰によって聖霊を受ける

 

では聖霊を受けるために、私たちに何が必要なのでしょうか。まず大切なことは、私たちに与えられる救いも聖霊の満たしもイエス・キリストからの贈り物であるということです。イエスがこの地を去られるとき、「わたしの父が約束されたものを、あなたがたに送ります。」(ルカ24:49)と言われました。ペンテコステの日に、ペテロはこう言っています。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊の賜物を受けます。」(使徒2:38)また、イエスは、「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちにはよいものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(ルカ11:13)と言われました。ですから、聖霊はイエスの賜物であり、救われたすべての人に約束されているのです。求める者には、イエスは与えてくださいます。 


 しかし、そうだからといって、無条件に、機械的に聖霊は与えられるものではありません。そこでイエスが「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」と言われたことに注意してください。これは約束のことばであると同時に、招きのことばでもあるのです。それには、条件があります。


ここに「だれでも渇く者」とあります。聖霊は救われていてなお渇く者に与えられ受けることができます。私たちが渇くというのはどのようなことでしょうか。パウロがローマ人への手紙7章で言っているような、救われているのになお心にある「自己中心、自我、古き人、肉、原罪」と言われる肉の罪の解決を求めている人です。またガラテヤ人の手紙5章18節から21節で言われているような、救われている者、またそう信じている者の心にある内的な罪、罪の性質の解決を得たいと求めている人のことです。

 

イエスはその人に、「わたしのところにきて飲むがよい」。そうすれば、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」と言われたのです。そうです。「聖霊に満たしてくださいと」求め、そのとき示される「約束のみことば」を信じることです。


幼稚園の先生をしておられたクリスチャンの姉妹が結婚されました。ご主人の弟さんは重度の身体障害者、食事は姑さんと庭を隔てた隣の結婚しておられるご主人のお姉さんと毎日一緒でした。気が休まるときがなく、結婚の喜びもなく、クリスチャンの喜びもなく惰性的な信仰生活を送っておられました。しかし、あるときの礼拝でガラテヤ人への手紙の2章19、20節から「内住のキリスト」の恵みについて語られたのです。そのとき、この恵みに与かりたい、この恵みが今の私を救い自由にしてくれると思い真剣に祈り求めるようになられました。求める中で示される罪を一つ一つ悔い改め、血潮によって赦していただきながらなお求め続けられました。あるとき、祈っていていると「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(口語訳コリント第二12:9)のみことばが上から来るように聞こえたのです。そのみことばを信じ、きよめの恵み、聖霊の満たしを与えられて今までとは違った全く新しい信仰生涯が始まったのです。これが、聖霊による上からの新しい霊的生涯のスタートとなりました。


しかし、聖霊に満たされる生涯について以下のことについて知っていることが大切です。それは、天使のようになるとか、判断を誤らないとか、誘惑がない、というような意味で完全な信仰者になるということでは決してありません。転機的な恵みですが、その恵みを継続するなかでキリストの御形なるまで成長し続けますし、罪を犯したときには悔い改め血潮によって赦していただき、いつも神さまとの正しい関係と親しい交わりを保ち持ちながらの生涯を送らせていただけるということです。私も主のみこころではなく自らの思いを優先して、神のお心に反したときなど悔い改めて赦されこの恵みを保たれてきました。



私たちも渇いて求めて信じて聖霊に満たされ「さらにまされる恵み」の生涯を始めさせていただきたいと思います。すでにこの恵みを得ている人はさらに成長し、聖(きよ)きにおいても、愛においても、伝道においても、生活においても御霊の実を結び、霊的感化を与えていくクリスチャンとならせていただきましょう。私たちは日々の神との交わりとみことばに聴従し御霊に満たされ続ける生涯を送りたいと思います。



*1 ヨハネの福音書7章37~39節

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注

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